夏は鬼門。飯嶋律にとって、これは物心ついた時から変わらない法則だ。
 年柄年中、やれ妖魔だ幽霊だと人外のモノに付き纏われてはいるが、夏はそれが輪にかけて酷くなる。

「また地獄の釜の蓋が開く……」

 畳に俯せになりながら、独り唸る。蒸し暑い気温の中で微かな涼風を感じようとするが、僅かの慰めにもならない。地球温暖化の影響で世界の気温は年々上昇しているというのに、この古い家はエアコンという文明の利器とはどこまでも無縁だった。

『うう、暑い。暑すぎる』
『じりじりと焦がされて焼き鳥になりそうじゃ』

 日中仕様の文鳥姿のモノクロ烏天狗コンビが縁側で伸びている。妖魔のくせに夏バテとはこれ如何にという疑問はとうの昔に浮かばなくなった。

(今年もこの季節がきた。ああやだ。サウナばりの我が家とはいえ、引きこもっているに越したことはない)

 異形絡みの面倒事厄介事とは全力で無縁を貫きたい律は、地獄のような大学の期末試験が終わりそのまま夏休みに突入した瞬間から家に籠り、必要のない限り一歩も出ない所存だった。
しかし如何に律が自衛策を張ろうとも、“呼ばれ”てしまえばそのような努力は全く無意味。大いなる流れには逆らえない。
 今回の使者は従姉だった。
 ガラガラという引き戸の音と共に、「こんにちはー」と明るく浮き立った声が響く。

「あら晶ちゃん! いらっしゃい、久しぶりねぇ」
「おばさん、ご無沙汰しています。お祖母ちゃんも」
「あんた、来るなら一言言ってくれれば」
「ちょっと寄っただけだから気にしないで。はい、これ母から。水ようかんです」
「まあ、ありがとう」

 もう一人の従姉の司とは対照的に、活発かつ社交的で強引グマイウェイな晶は、緩いウェーブを揺らしながら律の寝転がる広間に踏み込んできた。

「こら律、たるんでるぞ!」
「晶ちゃん、いらっしゃい……こんな暑いのによくそんなに元気だね」

 飯嶋の血筋は皆、大なり小なり変わっている。もっとも、まともではこの家系ではやっていけない。
 晶も生来の明るさでカバーされて一見分からないが、世間的に見るとやはりどこかズレている。というかかなりの変人である。「恵明大のシャーマン女」の二つ名の他に、影で「残念美人」と新たな綽名がついているとかいないとか。

「あんたこそ、若いのにだらしない」
「晶ちゃんと違ってスタミナがないんだ」
「何よ、それじゃまるで私が脳筋みたいじゃない。まあいいわ、ところで律」

 来たぞ、と律は内心でげんなりした。嫌な予感しかしない。今すぐ2階の自分の部屋に逃げたい。

「あんたまだ2年生で夏休みヒマでしょ。ちょっと手伝ってくれない?」
「手伝うって何を?」
「うちのゼミ、毎年夏に調査合宿に行くのよ。丁度いいからアシとしてついて来てくれないかなって」
「何で僕が?」
「今回の合宿先、市内からかなり離れててさー。レンタカー借りるんだけど、運転要員が欲しくって」

 アシというのは助手(アシスタント)じゃなくて(アッシー)の方か、とがっくりくる。

「嫌だよ。晶ちゃんだって運転できるじゃん」
「私は別行動だもん」
「え?」
「折角の夏休みの旅行だし、三郎と行くの」

 テヘペロとばかりに舌を出す。ゼミ合宿に彼氏同伴とはいい度胸をしているというのか大胆というのか、非常識ぶりはもう1人の従姉の司に引けをとらない。己の世間からの評価は棚上げに、自分の方がよほど常識人だと思う律である。
 しかし相手は例のごとく我が道を行く晶、何を言っても聞かぬだろう。だが律としては便利に使われようとしているだけなので納得がいかない。

「お断りします」
「お願ーい。バイト代弾むから」

 手を合わせて可愛子ぶる。バイト代など要らぬので心底放っておいてほしい。

「それに、もしうちのゼミ狙うなら今のうちに教授とお近づきになっておく方が後々得よ」

 晶と律は現在同じ大学の民俗学専攻に在籍している。なかでも先輩にあたる晶が所属しているのは毎年希望者が定員を超え、抽選になるほどの人気ゼミであり、確かに律もゆくゆくはと考えてはいる。勉強はいまいちだし研究が好きなわけでもないが、特殊な環境にいるだけに、祖父のように己の身を守る知識は得たい。

 そんなこんなで渋々と承諾してしまったわけだが、今思えばこれもまた仕組まれていたのかもしれない。
 青嵐は例のごとく「何かあった時に困る」と同行を主張した。暇つぶし感覚と意地汚い食欲があからさまに見え隠れしているだけに何とか思いとどまらせようとしたが、晶までもが、その霊感で律と叔父との間の言葉にできないつながりを察しているらしく、「いいんじゃないの」とあっさり承諾する始末で、ゼミ合宿に彼氏同伴どころか従弟プラス義叔父同伴という新たな伝説を作り上げようとしていた。

 当日、晶のゼミ仲間とともに新幹線と電車を乗り継いでの長い道のりを経て九州に至ると、予め予約しておいたレンタカー2台を借り上げ(晶は別のレンタカーを借りて三郎と青嵐を乗せ)、調査を行う集落に向かった。先導する車について急に曲がりくねる山道を登っていく。助手席に座る何某とかいうゼミ生が運転上手いねーとしきりに感嘆するのに愛想笑いで応じた。まあ、伊達に中学生の頃から乗ってませんよ、とはさすがに言えない。あまりに運転慣れしすぎたおかけで、いざ教習所に通って免許を取ろうとした時には教官に感づかれ、本免の実技試験をパスするまで何度落とされたことか。

 今回調査するのは知る人ぞ知る奇祭で、いつか調査に来たいと教授が言っていたのがついに実現した云々と、饒舌な先輩に適当に話を合わせつつメーターを確認する。先ほど確認した集落までの距離から逆算すれば何とか足りそうだが、帰りの分を思うと少々不安かもしれない。ナビをちらりと見ると、もう少し先を言ったところにガソリンスタンドの表示があった。案の定、前の車も寄る動きを見せる。無人(・・)スタンドのセルフタイプで給油してから再出発し、目的の集落に到着する頃には西日が大きく傾いていた。

 集落には2、3軒民宿がある。今回は人数も多いので、集落でも最大の宿に泊まる予定だった。
 長時間のドライブ疲れでゆっくり湯にでも浸かりたい気分の律を嘲笑うように、着いて早々祭の練習風景を見に行くということで、荷物を置くなり連れ出された。ついでに部外者ながら付き添いを申し出た三郎と、護衛を口実に餌捜しに来た青嵐もついてくる。三郎は旅路が余程楽しかったようで、初めて乗った「疾風のような速さの鉄の車」(新幹線のことだろう)の興奮をしきりに律に語った。能天気なものであるが、そうでなければあの晶の彼氏など務まらない。
 と、後ろについて歩いていたはずの気配がふと立ち止まったことに気づいて振り返った。青嵐が空を見上げるようにしてスンスンと鼻を動かしている。

「お父さん?」
「妙な匂いがする」
「妙って?」
「さあな」

 にやりと不気味に笑うのに顰め面で返す。全く不吉極まりない。律は早くも帰りたい気分になった。
 集落内は年に一度の例大祭ということで住民総出で忙しそうに行き交っていた。長い石段をひいひい言いながら登り、木材を組み立てている参道を通り越して、メイン会場となる社まで至ると、そこでは数人の若者衆と神社関係者が輪になり、深刻な表情で何やら話し合っていた。
 そのうちの袴姿の中年男性に教授が近づき声をかけた。どうやら宮司らしく、教授をみとめるなり輪から出てきた。宮司は小山と名乗った。

「遠路はるばるようこそ。お話は伺っております。何でも今回の祭を調査されたいとのことで」

 閉鎖的、排他的な集落も多い中で、宮司は歓迎の意を見せた。大切な祭礼の準備で忙しい中に部外者がいるだけでも煩わしいだろうに、「このご時世、身内で完結しては衰退する一方ですからね。むしろどんどん外に発信してこその伝統だと思っております」とのことで、それでさえ十分開新的であるのに、更には「折角なのでもし良ければ皆さんも祭に参加してみませんか?」とまで言い始めた。
 さすがに思わぬ申し出だったようで、教授も豆鉄砲をくらったかのごとく目をぱちくりさせている。

「いやあ、実を申しますと人手が足りず困っていたところなんです。この神事はサンノーどんの花嫁を神使である猿精が先導し、山にお迎えするというのが主旨なのですが、肝心の花嫁役が帰省途中に高速で交通事故に巻き込まれたと今しがた連絡があって」

 ほとほと困り果てた表情で小山は苦笑した。幸い女性に命の別状はないものの、脚を骨折したらしく祭礼に出るのは難しいとのことだった。

「今年に限って集落に戻ってくる若者の数が足りず、マサル役も中年組で埋めるしかないと話していたところなんです」
「しかし、大事な祭礼に我々のような余所者が参加しても大丈夫なのですか?」

 教授が控えめに訊くと、小山宮司はむしろこの偶然の重なりこそが神の思し召しと肯いた。あまりにあっさり受け入れているので却って怪しく感じるが、教授は奇祭の裏舞台も見れるという誘惑の方が強かったらしく、ゼミ生の意向など無視して快く引き受けたのだった。
 結果、男子生はマサル役、女子生は花嫁付の巫女役を仰せつかることになる。花嫁役は、衣装のサイズと見栄えの面から晶が選ばれた。
 出来すぎた流れに、律の心中には疑念と不吉な予感しかなかったが、研究魂旺盛な晶は神事の要である花嫁役を実際に体験できることに大喜びだった。
 祭祀では、集落の中で籤引きで選ばれた家の当主が祭主となり、神社の宮司と一緒に神事を取り仕切るが、住民の高齢化や集落の過疎化で、昔のようには執り行えないことも多いそうだ。そんな中、祭祀を調査にきた若者達は集落としても渡りに船で、互いにとってウィンウィンなアイディアだったわけである。
 ただの運転手としてきただけの律としては手伝う義理もないし、巻き込まれるのは心底勘弁であったが、有無を言わさず強引にマサル役に組み込まれてしまった。理不尽である。








 八朔祭は、元々は旧暦の収穫祭であり、日本各地でよくある山神祭祀の一種だった。

「日本における山の神は基本的に、山民が信仰するものと、農耕民が信仰するものの2つがあるんだ」

 と行きの車の中で解説してくれたのは、ゼミ生の中でも最年長の先輩だ。

「要するにさ、昔から山の集落には、狩人や杣人のような山の動植物で生計を立ててきたグループと、開墾して農作物を育てていたグループがいたわけ。信仰は大体生活に根付くものだから、前者にとって山の神は山そのもの、後者にとっては麓に下りてきて田んぼに五穀豊穣を齎すモノだった。両者の山神を同一起源とする説もあれば、別々に発生進化したとする説、はたまた狩猟や林業から、焼畑耕作を経て、やがて渡来の稲作にシフトして稲神と融合した結果、山の神と田の神が同一視されるようになったとする説と、学者によって解釈は割れるんだけど」

 集落の年寄の話によれば、毎年、山の神は秋の収穫期に田に下りてきて豊穣を齎し、春の田植え期に再び山に帰るというので、この分類に照らせば典型的な農耕民の山神信仰ということになる。この山から田に下りるというのは、水の流れ、つまり川にも関係するのかもしれない。水田に欠かせない河川を辿れば水源はほぼ山だし、河辺の石には穀神や稲神が宿るとも言われる。
 集落には、恐ろしい祟り神だったサンノーどんに人間の娘が嫁入りして以来、年々豊作がもたらされるようになったという言い伝えがある。この伝承に擬えて嫁入神事を行い、今年の実りを感謝し翌年の豊作を祈願するのが八朔祭だ。昔話としてはありふれたものだが、もし裏に現実的な由来があるとすれば、かつて旱魃や飢饉等が起こった際に、人柱が出されたことがあったのかもしれないとゼミ生達は話していた。

 祭祀の流れはこうである。

 まずマサル役が露払いをする。これは、神使である猿が花嫁をサンノーどんのところまで案内し、婚礼に集まった山精に祝い酒を振舞ったことに由来する。この案内役と猿精ということころから、猿田彦神であるとも言われるようになった。
 次に花嫁役と巫女役が剣舞を奉納する。花嫁とその付き人達は、山じゅうに溢れる穢れを見て、嫁入道具の一つであった魔除けの太刀で祓ったとされる。
 ここまでが表の儀式で、この先は非公開の秘儀となる。秘儀では、夜に嫁入行列を組んで山中に入り、花嫁役は新しい神体を持って、前の年に祠に納められた古い神体と取り換える。山に溜まる穢れを祓い、サンノーどんの荒ぶる魂を鎮めるのだという。そして花嫁役(形代を納めた瞬間から只の巫女となるそうだ)は1年分の穢れを吸った古い神体を持って山を下り、宮司と祭主が清め、儀式が終了する。
 夜に山に入るというので、晶は一瞬不安そうな顔をしたが、一人ではなく集落の人間が側についてサポートするからと説得されていた。

 かくして、本来のフィールドワークの代わりに、祭に向けて孟特訓を受け、迎えた当日。
 炎天下で、暑苦しい衣装の下で汗だくになりながら、なんとか猿役をこなしていた律は、観衆の中に思いもよらぬ人物を見つけぎょっとなり、熱中症ではない眩暈を覚えた。
 見覚えのある顔がこちらを見て怪訝そうにした。息苦しくて最悪なばかりのお面だったが、この時ほどしていて良かったと思ったことはない。
 まさかこんなところで再会しようとは夢にも思わなかったが、あいにく喜ぶ気には全くなれない。過去の一瞬の邂逅が脳裏に去来する。名前と学校名とふわっとした居住地は言っていたが、特に連絡先を交わしたわけでもなくそのまま別れたのだ。これが偶然なわけがない。嫌な予感は確信に変わった。

(よし、知らんぷりしよう。どうか最後まで顔を合わせませんように)

 まだバレていないことを幸いに、固く決心する。残念ながらそんな切なる願いが虚しく裏切られるのもすぐのことだった。








 そしてこの日の夕方。祭礼の後、宿に戻った律達と夏目達は宿の玄関で再度バッタリ出くわした。晶はまだ神事での役目があり、ゼミ生達は記録係、三郎は晶を待つと言って、律と青嵐だけ先に戻ってきたのだった。
 一方の夏目と名取は、後になれば人も多くなるからと、湯で温まったところだった(あまり期待してなかったが、以外にも天然温泉が引かれていた)。
 考えてみれば宿数が限られている中、規模も考えれば遭遇率は十分に高かったわけだが、律は“神の思し召し”とやらを一方的に恨んだ。

「知らんぷりとか友達甲斐ない奴だな」
「え、僕らって友達だった?」

 言葉の綾もあったが、真顔でそう即答され、夏目は返す言葉に窮した。嫌味とかではなく明らかに素だった。

「機会があれば遊びに来てもいいって言ってなかったか?」
「そうだっけ」

 自分の言ったことなど最早記憶の彼方の律である。まあ高校生だったし、と言い訳しながら急に暗い顔になった。

「これ絶対不味いパターンだよ」

 絶望感の籠った溜息をつかれると、夏目としても段々心配になってくる。旅行気分で忘れかけていたが、そもそも夏目達がここへ来た―――いや来させられた経緯も不穏なのだ。

「色々気になることはあるけど」
「まずはメシだな」

 取りなすように口を開いた名取を遮って、青嵐がさっさと靴を脱いで彼らの間を横切り、美味しそうな匂いの漂う広間に向かった。律が慌てて後を追う。
 ワンテンポ遅れて女将が現れ「お食事の用意はこちらにできております」と夏目達ににこやかに告げた。
 何となく出鼻をくじかれた風情の名取は、軽く嘆息して、夏目を広間に促した。ちなみにニャンコ先生は未だにひっくり返っており、なかなか起きる気配がなかったので戸棚の中に放置してきた。念のため名取の式である柊達が側で見張りをしてくれている。ペット持ち込み禁止であろう宿で、布団を敷きに来たスタッフの目に触れたら一大事だ。

 名取には律達との過去の邂逅やそこで起きたことについてあらかた説明をしていた。ただし、律についてはあくまで自分と同様に『見える人間』ということだけで、彼の祖父の因縁や父親に扮した護法神については伏せてある。しかし名取は「飯嶋」という姓を聞いた時に「ほう」と意味深な相槌を打っていたので、ひょっとしたら心当たりがあるのかもしれなかった。確か律の祖父の蝸牛こと飯嶋怜は小説家である傍ら、噂を聞きつけた人から頼まれ祓い屋まがいのことをしていたというから、その界隈で名が知れていたとしてもおかしくない。

 そういえばあの夏、地元に戻った夏目は地区の中央図書館に足を運び、飯嶋蝸牛の小説を借りて読んでみた。物語でありながら、そこに描かれる妖達はどれも匂いや手触りが感じられそうなほどリアルで、恐ろしくもどこか懐かしく、そして書き手の妖に対する温かい眼差しが感じられた。あれらが実体験に基づくものだとすればリアルさも頷けるし、祓い屋として活動していたとしてもおかしくない。

 食事は部屋ごとに卓が分かれており、宿泊客同士の間に会話はなかった(青嵐が全員のお代わり分の白飯をタライごと平らげた時はさすがの名取も呆気にとられていた)。
 彼らの方を気にしつつも、律が何に警戒しているかが分かるだけに、夏目もあえて近寄ることは憚られた。そんな夏目の様子に気付いていたので、名取も今日の祭の感想や最近あった出来事など始終他愛ない会話に徹していた。

(これが仕組まれて、お互いに呼ばれたとしたら、確かにロクなことじゃない)

 もう遅いかもしれないが―――
 ふと夏目は思い出して、お茶を飲んでいる(会合に備えて酒は控えているらしい)名取に問いかけた。

「そういえば名取さん。会合は何時から始まるんですか?」

 手紙には『子の刻』としか書いてなかった。イメージ的にはかなり深夜のようだが。
 名取は腕時計を見ながら、

「ああ、午後11時からだよ」
「随分遅い時間なんですね」
「その時々でバラバラではあるんだけど、確かにこんなに夜遅くは珍しいな―――何かサプライズでもあるのかもしれない」

 と意味深に微笑む。的場一門の仕込むサプライズだなんて、どう考えてもポジティブなものではない。
22.02.18

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