「ではこちらに袖を通して……そのまま動かずに」 集落の中年女性の助けを得て、絹の光沢と透かし織が美しい白無垢に腕を通す。年代物だろうが、丁寧にメンテナンスをしているのか、染み一つない。仮初の婚礼とはいえ、晶はそれだけで気分が高揚した。 奉納舞を終えた晶は、他の巫女役と異なり、一人神社に残って少し休んでから、夕刻に風呂で身を清めた後、肉魚類を省いた精進料理をいただいた。 (結婚式をするなら絶対ウェディングドレスにチャペル式と思ってたけど、実際着てみると白無垢も捨てがたいわね) 浮き立った気持ちで、実際の自分の式を脳裏に思い描いてみる。もちろん隣に立つのは三郎だ。 (三郎はやっぱり神前婚派かな。西洋式は戸惑いそう。いやその前に、その気になってくれるかしら。というか、お父さんとお母さんにどう説明しよう) うっとりとした夢想から一転、現実問題にモヤモヤと思い悩む。あまり考えないようにしていたが、そもそも三郎は、妖魔でないにしても人間ともいえない曖昧な存在だ。本来であればずっと昔の時代に生きていたはずの人で、当然ながら現代に戸籍もない(厳密には調べればあるのかもしれないが、とっくに故人の扱いだろう)。入籍手続きができないから、仮に結婚することになっても、晶は書類上は独身のままとなる。幸いというべきか、普通の人間のような病気やケガをするわけではないから、保険や税金の心配はないにしても、世間体的、将来的にそれでいいものだろうか。 「まあ、とってもお似合いですよ!」 パンと手を打つ音で我に返る。ぼんやりしているうちに着付けが終わってた。日が暮れたとはいえ、蒸す中での花嫁衣装はさすがに暑い。最後に綿帽子を被らせてもらい、じんわり汗をかきながら本殿に行くと、すでに集まっていた人々が晶の晴れ姿にワッと華やいだ。三郎は見惚れた顔で、ほわぁと感嘆した。 「すごく綺麗じゃ。まるで天女様を見てるみたいだ」 心の底からの純粋な言葉に、晶も顔が熱くなる。まるで本当にお嫁に行くような錯覚にとらわれた。それを見たゼミ仲間達が「いっそこのままついでに式を挙げちゃえば?」と口々に冷やかすので、ようやく本来の目的を思い出し、咳払いをして宮司のいる神前に向かう。 祭壇には、新しくつくられた神体が鎮座していた。神体は小さな小石に「人」の字を書き、稲で編んだ輪をかけたもので、手のひらに載るくらいのサイズだった。 この後、宮司による言祝と祈願の儀式があり、祭主や付人と共に山の祠へと向かうことになる。外にはすでにその用意が整っており、提灯を持った紋付正装姿の人々と、マサル役数名が待機していた。あんな恰好では暑いだろうに、彼らも大変だなと思う。さすがに祭祀の肝となる花嫁行列については、用意や決まりごとの面から不便が多いため、集落の人で構成されていた。 (何だか不思議。ドキドキしてきた) 晶はなんとも言葉にできない感覚を抱いていた。不快なものではなく、心が温まるような、心地よい類のものだ。それは奉納舞の前にお清めで御神酒を口にした時からほんのりあった。 (あれ美味しかったなぁ。終わったら改めて飲めるかしら) 祝詞が終わり、宮司が神体を恭しく木箱に納め、錦織の袋に包んだ。 これから長く歩くことになるので、晶は裾を引きずる打掛はここで脱ぎ、本殿から外に下りる。 控えていた付人役の紋付黒無地の女性に手を引かれながら、提灯を持つ数人しずしずと動き始めた。ゼミ生たちはそれらの動きをじっと固唾を飲むように観察し、ノートに仔細をメモしている。さすがに神事ということで、写真は禁止されていた。 先導する祭主が長唄を歌いながら、本殿を迂回するようにして、神社の脇から山道の入口に向かう。普段は柵で閉鎖されているそこは、今は開け放たれており、無数の鳥居と石段が上へと続き、左右の各所に灯篭が灯され、道を照らしていた。ただでさえ動きずらく重たい婚礼装束なのに、段の多さに眩暈がしそうだ。 「ここから先は花嫁と祭主のみとなります」 小山宮司が振り返り、ついてきていた教授達にすまなそうに告げた。予め承知していた教授は頷き、ゼミ生達にも目くばせする。 晶は宮司が抱えていた神体を受け取った。 「晶ちゃん、頑張ってね」 「あとでちゃんと詳細を報告しろよ」 「手順間違えるんじゃないぞ」 ゼミ仲間から口々に激励をもらい、笑って応じる。 「晶、足元に気をつけてな」 「うん」 心配そうな三郎の声に、かえって少し緊張がほぐれた。深呼吸をして、入口に向かう。 「暗いから足元に気を付けて」 「え?」 晶は一瞬吃驚して顔を巡らせた。声をかけた方も目を丸くして瞬きをしている。 (何だろう、変だな) 首を傾げる。声をかけられるまで祭主の気配に気づかなかったのだ。暑さでぼんやりしていたのだろうか。 「すみません、大丈夫です」 気を取り直して祭主の後に従い、灯篭の光で濡れたように照る石段を一歩一歩確かめるように上る。一応手すりはあるが、足元も暗いから下りる時が恐ろしい。 慣れぬ草履で滑らぬよう慎重に踏みしめていると、十段も超えたところで息が切れてきた。何より暑い。体温が上がって汗だくになっている。しかし祭主は慣れているのか、あるいは意外にも鍛えているのか、年嵩にも関わらず疲れた様子なく晶を励ます。 休み休み登りながら、ついに平らなところに出た。むき出しの土の道の先、木立の合間に、二つの灯篭に挟まれて祠があった。思ったよりも素朴で小さく、古びていた。 「あの先の祠が御神体の納所です」 祭主が指で示し説明する。 新しい神体と交換したら、役目は終わりだ。あともう一息と晶は祠に向かった。 祠には頑丈な錠がかかっている。この鍵は神主が管理しており、祭祀の時に花嫁役に渡される。 教わった通りの手順で一礼し、神体を石壇におき、手を合わせ祈りの詞を捧げてから、重たい鉄製の鍵を外して、慎重に観音開きの扉を開けた。 狭い祠中には、持ってきたものと同じように「人」の字の書かれた小石が鎮座していた。密閉された中に1年置かれただけなので、経年劣化は見られない。だがそこに込められた強い負の波動を、生来の巫女体質である晶は感じ取った。 さあ、これを交換すれば終わりだと手を伸ばしたところで、背筋にぞっと冷気が走った。背後で木立が不気味に鳴った。ザワザワという葉擦れ音に、何かの息遣いが紛れる。 ハッとして振り返ろうとしたところで、後頭部に強い衝撃があった。痛みよりも先に頭の揺れのほうが勝り、意識が遠のく。おぼろげな中で風が吹き、灯篭の灯が掻き消えて一面闇となるのを見た。耳の奥で何かが叫んでいる。 ―――あなた ―――どこへ ごうごうと鳴る風音に混じって悲痛な声がする。あるいは空耳で、風の唸りがそう聞こえたのかもしれない。 何故かすぐそばに三郎の存在を感じた。晶に向かって何かを叫びながら右腕を差し出しているのが見える。 (三郎―――) そちらへと手を伸ばす。指先が触れたと思った。晶の意識はそこで途切れた。 灯篭に照らされ、厳かにも不気味にも見える連鳥居の先を、皆不安げに見守っている。先程までお喋りを交わしていた大学生達も、雰囲気に飲まれたように無言になっていた。 「……少し遅いですね」 小山宮司が呟いた。時刻はすでに9時半を回っている。登っていってから既に40分が経過していた。 「確かに、いつもより時間がかかってるなぁ」 先導役の一人であった中年男性が同意する。常ならば30分以内には戻ってくるはずだという。 「上で何かあったのかしら」 「山本さんがいるから大丈夫とは思うんだが」 今年の祭主である山本家の戸主は30年以上祭に関わっているし、以前にも何度か祭主を務めたことがあるベテランだ。何か不測の事態があったのかもしれない。 もう5分して戻らなければ、異例のことではあるが、自分が上って様子を見に行く、と小山宮司が言った。 集落の人々の顔が曇る。本来の祭祀の手順を破るのには抵抗があるらしい。 「そんなことをして、何か障りでも起きたら」 教授達を気にしつつも、1人が固い声で警告するが、小山宮司はやや憤然とした口調で返した。 「万一ケガをして動けないとかだったら、そちらの方が大事だ」 「これだから余所者にやらせるのは反対だったんだ」 ヒソヒソと交わされる囁きの中に忌々し気な愚痴が混ざる。誰かが窘めるようにシッと制止した。小山宮司をはじめとする一部の人は歓迎していたが、やはり中には外部の人間を祭に参加させることに拒絶感を持つ地元民もいたようだ。教授は聞こえないふりをしていたが、民俗学を研究しているとはいえ今時神の祟りなんて迷信に過ぎないと考える大学生達としては、こうした発言に不満そうな表情を浮かべていた。 気まずい空気が漂ったその時、どこからか、おおい、と声が聞こえてきた。 「ん?」 花嫁行列の殿にいた青年組の男が来た道を振り返った。 遠く後ろの方から、提灯を持った誰かが片手を振り上げ、こちらへと駆けてくる。 「おい、あれ、山本さんじゃないか?」 集落の人々がにわかにざわついた。驚きと戸惑いが入り混じる。 一行の持つ灯の中に徐々に浮かび上がった姿は、先程花嫁役と一緒に祠に向かったはずの祭主だった。 ようやく追いついた山本は、祭主の衣を若干乱れさせながら、腰を折ってゼイゼイと喘いだ。 「す、すまん。一度家に着替えに戻った時に、急に眠気が来て、ほんのひと眠りするだけのつもりが、何故か目覚ましが鳴らなくて、気づいたらこんな時間に……誰も呼びに来なかったが、もしかして神事はもう?」 息も絶え絶えに、汗だくになって言い訳を並べ立てる。 しかし皆がぽかんと呆けた顔で無言で自分を見つめているのに気づくと、山本も「どうかしたのか?」と徐々に困惑しだした。 「や、山本さん。あんた……さっき、祠に登っていったんじゃ?」 おずおずと宮司が尋ねる。はあ?と山本は大きく瞬きをした。 「そんなわけないだろ。さっき飛び起きて、慌てて走ってきたんだぞ」 山本はそう言いながら、皆の強張った表情に、何を言われているのか段々理解し、顔色を青くした。 「じゃあ、さっき上がっていたのは?」 ぽつりと、晶と仲の良い女子大生が震え声で誰へともなく訊く。 それに応じるように、強い風が吹いて等間隔で連鳥居を照らしていた全ての灯篭がふっと消えた。 誰かの悲鳴が呼び水となり、叫び声が連鎖して、人々はパニックに陥った。何人かは神社の方へ逃げていく。 その中で一人、三郎だけは何かに呼ばれたように闇を見上げていた。晶はどうしたのだろう。無事を確認せねば。その衝動にかられるように、手近な人の持っていた提灯を奪い取ると、背後の制止も無視して石段を駆け上がった。 知らせが飛び込んできたのは、律達が丁度風呂から上がり部屋に戻る途中だった。 「なんじゃ、何やら騒がしいな」 「玄関の方だね」 何事かと廊下からひょいと覗くと、晶のゼミ仲間の男女数名が大汗を掻きながら這っていた。 (晶ちゃん達、終わったのかな) 確か祭祀は10時頃に終わると言っていた。時計を見ると、針は間もなく10時00分を指すところだった。 「あらまあ、どうなすったんですか」 困惑している女将に、大学生達は口々に捲し立てる。 「急に灯篭の火が消えて、真っ暗に」 「一緒に登ったはずの祭主が、後から来て、自分じゃないって」 「どうしよう、広瀬先輩置いてきちゃった。110番しないと」 「バカ、警察呼んでどうするんだよ!」 相当混乱しているのか、それぞれが支離滅裂なことを訴える中で、律の耳は聞き捨てならない言葉を拾い上げ、血の気が引いた。 「あの、いま晶ちゃんのこと話してました?」 未だにパニックで収拾のつかないゼミ生に詰め寄る。 「ああ、君、確か広瀬さんの―――」 「従弟です。何があったんですか?」 そこへ他の宿泊客―――すなわち夏目と名取も顔を覗かせた。二人は何故か外行きの姿で鞄を手にしている。騒ぎを聞きつけたというより、丁度これから外出する予定だった様子だ。 「落ち着いて。何があったんだい?」 名取も横に膝をつき、穏やかな声音で話を促す。その首にトカゲの影がよぎるのを律は横目でチラリと見やった。 自分よりはるかに年上の大人から冷静に問われ、少し頭が冷えたらしい最年長の院生が、起きた出来事をしどろもどろに語り始めた。やがて残りの大学生も落ち着きを取り戻し、少しずつ説明に加わる。しかし話しながら、本人たちも今しがた自分が実際に経験したことの信憑性を疑問視していた。それほど、内容が現実離れして荒唐無稽だったのだ。 (晶ちゃんが大変だ) だからロクなことにならないと思ったのだ。警鐘は最初から響いていた。しかし今更それを言っても事態は解決しない。ゼミ生達の話も若干要領がつかめないし、とりあえず件の祠まで行ってみないことには何も分からない。晶もまだそこにいるのだとすれば、いざこざに巻き込まれる前に助けなければ。妖魔だの神仏だのに関わるのは嫌だが、家族が関わるとなれば話は別だ。 三郎さんもきっと晶を探しに行ったのだろう。うまく合流できれば良いが。 「あ、飯嶋―――」 踵を返した律の背を夏目が呼び止めかけたが、律は他のことにすっかり思考を奪われて聞こえていなかった。 湯上りの浴衣姿では身動きができないので、急いで部屋に戻って着替える。 「いいぞ、こうでなくてはな」 状況を面白ろがりながら同じく着替える青嵐を睨めつけるも、所詮は妖魔ゆえ仕方ないと諦める。貴重品だけポケットに突っ込んで再び玄関に向かう。 靴に履き替え、戸を飛び出したところで、あれっと声を上げた。 夏目と名取、そして足元に三毛猫がいた。姿が無いのでてっきりすでに外出したものと思いきや、表で待っていたらしい。 「俺達も一緒に行くよ」 神社の方へつま先を向ける律と青嵐に足早に駆け寄る。 「えっ」 律は迷った。確かに手が多い方が何かと便利ではあろう。親切心は素直にありがたい。たが夏目は律と同様、見えはするが対処する術をそう持ち合わせているわけではないだろう。かつて巻き込まれた家鳴りの一件も、2人協力して辛うじて解決できたくらいだ。あの時は無事で済んだが、今回は神事が絡んでいるし、中途半端に巻き込んで大事になっても責任が取れない。 返答に窮している律の様子を見て取り、横から名取がにこやかに夏目を援護した。 「私もこういう事案には慣れている。一応専門家だからね」 「専門家だと?」 胡乱げな青嵐の目線に、名取は薄く笑い「祓い屋なんだ」と声を潜めて言った。 律は驚き、まじまじと凝視した。普段ニュースくらいしか見ない律は芸能関係に疎いが、ゼミ生達が騒いでいたので、彼が今を時めく有名俳優であることは承知していた。そんな華やかな業界人が、実は祓い屋の二足草鞋だったとは。夏目と一緒にいる理由が理解できた。 「急いだ方がいいぞ」 相変わらず珍妙なニヤケ顔の猫がさっさと先を行く。 未だに躊躇はあるが、悩んでいる時間もない。祖父の蝸牛とて祓い屋をしていたからこそ災厄を防いできたのだ。一方で不要に呼び込んでしまった災厄もあったが。青嵐の正体に感づかれるリスクも思考を掠めたものの、晶の無事と天秤にかけられない。背後に強い意思の存在を感じながら、律はため息をついた。所詮、抗ったところで大河の流れに勝てはしないのだ。 「分かった」 こうなっては致し方ない。夏目の知り合いなのであれば、悪いようにはしないだろう。諦め気味に同意した律に、夏目もホッとして表情を緩める。 青嵐ばかりは面白くなさそうに「祓い屋風情が」とぶうぶう文句を垂れていた。 |