夏目は石段の上を戦々恐々と仰いだ。汗を掻いた額をぬぐう。深夜に青白い電光で浮かび上がる夜の神社は、異様な雰囲気を醸していた。
 それなりに広い集落とはいえ、民宿と神社、そして祠までの動線は一本しかない。ここまで誰にもすれ違っていないということは、花嫁役をしていた広瀬晶―――実は従姉だと道中で聞いて驚いた。顔はあまり似てないが、晶もまた生来霊力が強いらしい。さすが飯嶋の血縁というべきか―――はまだ山から下りてきておらずそこに留まっているのだろう。昼間に境内でニャンコ先生が激突したバンダナ男は晶の彼氏で三郎というらしいが、彼も花嫁行列について行って、その後姿が見えないという。2人でどこかに行ったという可能性もゼロではないが、晶は借り物の高価な白無垢だし、あんな怪異があって暢気に夜の山デートということはさすがに考えにくい。

 境内には人っ子一人おらず、しんと静まり返っている。祭礼についてきた集落の人々は悉く逃げたらしい。しかし余所から来た女子大生がひとり宿に戻っていないと知れば、世間体もあるし、宮司をはじめ何人かは探しに戻ってくるだろう。
 人目があると却って面倒かもしれないと、4人と1匹(厳密には3人と2匹か)は今のうちに祠のある石段を目指す。が、鳥居の彼方に人の気配は感じない。
 宿の部屋から持ち出した懐中電灯で足元を照らしながら、慎重に上っていく。万一にも足を滑らせたら大惨事だ。

「神社に登るまでも相当長かったけど、これまた長い階段だね。一体何段あるのやら」
「まあ、山神の社というものは大抵こんなもんだな」

 ひとり身軽なニャンコ先生は軽快な足取りで先を行く。夏目達が夕食を食べ終えた頃には酔いも覚めたらしくすっかり復活していた。色々食べ損ねたことにしばしご立腹だったが、この成り行きに興が乗ったのか不謹慎にも意気揚々としている。

「暑苦しくてかなわん。いっそのこと脱ぎ捨ててしまおうか……」

 スポーンと、と視界の端で飯嶋父が激しい息切れの下でぼやき、目を吊り上げた息子にどつかれている。

「こんなところで全裸になったらそれこそ警察沙汰ですよ」

 名取の若干ズレたコメントを片耳に、恐らく服のことじゃないんだろうな、と夏目は心の中で冷や冷やする。こんなところで脱ぎ捨てられたら困る。名取への説明事項が増える。いや、それ以前に事案どころか事件になってしまう。
 しかし本音ではちょっと見てみたい気もする。いや、死体ではなく本性の方という意味だが。一度だけ目にした姿は、ニャンコ先生の本体に劣らずそれは見事で、何故か悲しくなるほど美しかった。あれほどの強大な式神を使役した律の祖父は、本当に凄い人だったのだろう。
 顎に伝う汗を拭い、大きく息を吸う。夏の夜特有のむっとする空気に、濃厚な深緑が香る。
 それから夏目は隣の名取に小声で謝った。

「名取さん、すみません。我儘言ってここまで付き合ってもらって」
「乗りかかった舟ってやつだ。別に構わないさ」

 律や彼の従姉が心配になった夏目は、名取に頼んで、石月渓谷まで行くのを少し待ってもらっていた。
 本当は自分とニャンコ先生だけで律達についていき、名取には宿で待っていてもらうつもりだったのだが、名取が「自分も付き合う」と言ってくれたので、お言葉に甘えたのである。

「時間、大丈夫ですか?」
「心配いらないよ。ここから石月渓谷はわりと近くて、車で30分程度なんだ。最初は、早めに行って靜司が何を企んでいるのか探ってやろうと思ったけど、こちらも放っておけないしね」

 多少遅れたところで咎められることはない、と自信満々に断言する。夏目は安堵しつつも、申し訳なさそうに笑った。肩に友人帳の入った鞄の重みを感じる。自分では何の役に立つかは分からず、余計に事態を悪化させるのではないかという不安もあっただけに、名取がついてきてくれたことは正直心強かった。
 ようやく連鳥居の果ての終着地に辿り着いた。ニャンコ先生以外はしばらくその場で息を整える。これまで石段が続いたので、てっきり目的地も神社境内のように整備されているかと思いきや、申し訳程度に踏み慣らされただけの何もない土地のようだった。律がふらふらしながら懐中電灯を左右に巡らす。その度に木立が不気味な影を描いた。やがて少し先に祠や灯篭らしき小さな影が蹲っているのに気づいた。
 ガクガク笑う膝を叱咤して、這うようにそちらへ行き、各々周囲を見回すが、人のいる様子はなかった。律が遠慮がちながら「晶ちゃん」と少し大きめに呼びかける。しかしその声は虚しく闇に吸い込まれるばかりだった。

「誰もおらんようじゃな」

 ニャンコ先生が祠の周りをぐるりと巡る。

「お、祠の扉が開いている」
「勝手に触るな。罰が当たっても知らないぞ」

 中途半端に開かれた木戸に手をかけ開けたり閉じたりしている青嵐の手を律が慌てて叩いた。

「あいにく罰を当てる神は留守のようだ」

 青嵐が鼻でせせら笑う。よく見れば開かれた祠の中には何もなかった。

「何かいた気配はあるが、今は空っぽだな」

 祠の前に置かれた石壇に前足をかけ、伸ばした鼻先をくんくんさせながらニャンコ先生も同意する。

「おや、これは?」

 灯篭の脇で何か発見したらしい名取が懐中電灯で照らす。無機質なLEDランプにキラリと反射したのは錦織の包袋だった。その横に木箱が転がっている。
 夏目が明かりを向けると、木箱の中もまた空だった。
 それらを見て何か思い出したらしい律があっと声を上げた。

「確か八朔祭では、最後に花嫁役が古い御神体を新しいものに変えるんだ」

 律は他のゼミ生らとともに、宮司から祭祀の内容や神事の流れを聞いていた。この木箱と袋は御神体を入れていたものではないかという。  名取が指で顎をなぞり考え込む。

「すると、花嫁役だけでなく祠の中にあったはずの古い御神体と箱の中にあったであろう新しい御神体まで消えたということか」

 いよいよ不穏な展開になってきた。夏目は胸騒ぎを覚え、汗を吸ったTシャツを無意識に握りしめていた。
 律は焦った様子で青嵐と何やら相談している。誰かを呼ぶとか、ふくちゅうむしがどうの、と聞こえたが、仔細は分からない。
 足取りをつかむ手掛かりはないかと首を巡らせ半身を返したところで、キンと鼓膜に痛みが走り、思わず耳を抑えた。右の襟足の髪が逆立つ感触があり、引っ張られるように右側へ首を巡らすと、闇の中にふわりと白く薄いものが閃いた。
 脳がそれを捉えた途端、心臓が跳ねた。無機物が意思を持って動いているような不自然さに、ぞっと全身を怖気が走る。
 声なく唾を飲み込んだその時、視界の端から丸っこい物体が走り出し、宙に浮かぶものに飛び掛かった。あっと思った次の瞬間には、ニャンコ先生が口に白く薄い紙を捕えていた。

「どうした」

 気づいて駆け寄った名取の手に、「ほれ」と咥えたものを押し付けた。一瞥した眼鏡の向こうの目が剣呑に細まる。
 名取の肩越しに背後から覗き込んだ律がうわっと顔を顰めて後退り、(えもの)ではないと見て取った青嵐はつまらなそうに鼻を鳴らした。
 人の形をした白い紙。名取達祓い屋がよく使っている紙人形、あるいは人形(ヒトガタ)と呼ばれる呪具だと夏目も知っていた。
 よく見ると人形の中央に何か文字が書かれている。「山本雄吾 甲子辛庚生」名取が読み上げた。少し距離を取った律が驚く。

「山本って、確か今年の祭主の人の名字だったような」
「なるほど。これが『ドッペルゲンガー』の正体だな」

 名取は得たりと頷いた。いつから入れ替わっていたのか、晶と共に山を登った祭主はこの人形だったということか。

「これって人形、ですよね」

 夏目は恐る恐る尋ねる。つい先程まで意志あるモノのように宙を漂っていた人形は、今はニャンコ先生の歯形がつき、名取の掌中で力を失ったただの紙片と化しているようだった。懐中電灯で照らしながら、名取はその人形の首にあたる部分に撒かれた黒い糸をつまんだ。髪の毛に見える。

「当人の髪と生年月日でつくる人形とは、なかなか高度な術だ。……狙いは御神体か」
「つまり晶ちゃんは人為的な何かに巻き込まれたってことですか。人形なんて物騒なもの、一体誰が」

 律は憤慨と当惑を綯い交ぜに語気を荒げた。ちなみに脳内に描いたイメージ犯人像がつい己の叔父の顔をしていたのは御愛嬌だ。
 名取は人形に目を落としながら、じっと黙考している。やがて指の間でその口が重く開く。

―――もしかすると、会合の参加者かもしれない」
「え?」
「会合?」

 夏目と律が訊き返すのは同時だった。
 名取は苦虫を噛み潰したような、なんとも難しい顔で唸っていた。








 ふと気づくと、三郎の目の前には黄金色が広がっていた。おや、と瞬きをする。直前まで何をしていたのか、頭がぼんやりと霞がかっており、よく思い出せない。
 たわわに実った稲穂が重そうに頭を垂れていた。よく育ったそれに嬉しくなる。
 ああ、そうだ。そろそろ収穫の時期だ。村の皆を手伝わないと。

 ―――もうし、そこの方。

 呼びかけられ、稲から顔を上げる。真っ白な婚礼衣装を纏った若い女が佇んでいた。
 はて、今日はどこぞで祝言があるのであったか。外から嫁ぎに来たのだろうか。それにしては付き添いもなく新婦が一人このようなところにいるのは違和感があった。ふと綿帽子の下の面が露わになる。
 ああ、晶ではないか。懐かしさと愛おしさがじんわりと胸に込み上げる。本当に、天女のように綺麗だ。そうか嫁入りするのかと心の中でこぼす。当然だ。自分はとうの昔に寿命を終えていたはずの、あちらの世界に片足を突っ込んだ箱庭の住人。いつ消えるとも知れぬ身だ。今を生きる晶と添い遂げられるはずがない。このような異形紛いと共にあるより、同じ人間と結ばれるべきだ。無論未練はあるし、悲しい気持ちではあったが、彼女が幸せであるなら偽りなく祝福できる。

 ―――お助けいただけないでしょうか。

 紅を塗った唇が動く。よく知っている声のはずなのに、まるで見知らぬ他人のものに聞こえる。春風のように心地よい不思議な声音だった。

「どうかしたのか?」

 ―――迎えが来ないのです。

 どうやら思い違いをしていたらしい。彼女は外から嫁いできたのではなく、これから別のところに嫁ぎにいくのか。

 ―――何とか自分の足で行こうと思ったのですが、あまりに道が遠くて。急がないと祝言に間に合いません

 それは確かに困った。自分でよければ何とかして力になりたいが、肝心の“足”がない。生憎、この村にいるのは鈍間な田植え牛くらいだ。どうしたものだろう。
 つと、白無垢の下から指がのぞき、三郎の腹辺りを差した。

 ―――“それ”で一つ拵えていただけませんか。

 おや? 何か入れていただろうかと不思議に思い懐を探ると、木材といつも使っている彫刻用の小刀が出てきた。いつの間に入れていたのだったか、これまたいまいち記憶がない。

 ―――何でも構いません。とにかく足の速いものを。

 なるほど、と腑に落ちた。
 さて、何が良いか。足の速いものといえば、思い浮かぶのはやはり馬だ。盆に祖霊を乗せ走る胡瓜馬のような。
 ぱっと脳裏に閃いたものがあった。そうだ、あれがいい。刃を木に当て、手早く削り出していく。一度思い描けば手つきに迷いなく、空でみるみると形作っていく。
 出来上がった木細工を掲げて眺め、満足げに頷く。これならばいくつもの山もあっという間にひと飛びだ。我ながら会心の出来に、満面の笑みを浮かべた。
22.02.18

7BACK      NEXT8