街頭も乏しい山中の車道を一台の車が走る。あたりは漆黒の闇一色で、車の放つライトだけが白々しくアスファルトを反射していた。 急ぎの道行きではあったが、夜の山道は危険も多い。他に車はないからとスピードを出し過ぎた結果、突然現れた対向車や、あるいは鹿などの獣にぶつかったり、急カーブを曲がり切れずに転落する事故は珍しくない。焦る気持ちもありつつ、運転手の名取は慎重にアクセルを踏み、危うげなくハンドルを切る。 相変わらずの巧みな運転技術に状況も忘れ、助手席に乗った夏目は惚れ惚れする。それからふと旅館の外にあった車を思い出し、後部座席でぼんやりと窓の外を見ている律に声をかけた。 「そういえば飯嶋って、車運転するのか?」 「え?」 上の空だったらしく、頬杖を外し瞬きを繰り返す。 「いや、旅館の外に車があったから運転できるのかと思って」 「あー、まあ中学生の時から乗ってるし」 その『乗ってる』が『乗せてもらっている』の意ではないことを悟り、運転席の名取が「嘘だろ」と頬を引きつらせていた。 発言した当の本人は気にした風もなく、「スピード狂の祖母に叩き込まれて」と溜息をついている。 「無免許運転……」 「今は免許取ったよ」 夏目の呟きに一応の訂正が入る。よかった。いや、いいのか? 「いや、俺も今教習所に通って仮免中なんだけど、こう……色々視えちゃって、人間との区別がつかなかったりしてうまく運転できないというか。飯嶋はそういうことはなかったか?」 「まあ視える時もあるけど、特に困ったことはなかったかな」 勝手に後部座席に座られたり車体に圧し掛かられたりすることはあったけど、と苦々しく付け加える。 「少なくとも生きている人間と見分けがつかないってことはないね」 「そっか……」 「あれじゃない。夏目はセンサーの調節がうまくいっていないとか」 「センサー?」 「前に話したことあるかもしれないけど、僕の従姉―――もう1人別の従姉は、生きているモノとそうでないモノの区別がつかないタイプなんだ。でもあれは本人に霊力の自覚がないからそうなる。夏目の場合は自覚があるんだから、意識すれば感度を絞れるようになるよ」 「やっぱり……助手席に乗っている時は大丈夫だから、緊張しすぎで気持ちの余裕がないせいだと自分でも思うんだけど」 ハンドルを握ればどうしたって緊張する。これはもう慣れるまで田沼に頼んで、私道での練習に付き合ってもらうしかないかもしれない。 「もうすぐ着くよ」 会話が途切れたところで、名取が声をかけた。 ほどなく、道の右側に現れた広い敷地に車を入れる。土がむき出しのまま舗装されていないそこは駐車場のようで、他にもたくさんの車が並んでいた。 車を降り、暗闇にそびえる影を見上げ、夏目は動悸を飲み込むように息を吸った。木がしきりにざわざわと葉擦れ音を鳴らしている。生温く、手足にまとわりつくような重たい風だった。まるで山全体が圧し掛かってくるような――― 「……山が怒ってる」 ぽつりと横で呟いた律を見る。彼もやはり山に視線を注いでいた。同じものを感じ取っているのか。 「ここから先は歩きになる」 車にロックをかけた名取が目線で行き先を示す。それぞれ手に持った懐中電灯をつけた。生い茂る山林の間に黒く口を開く道は、息をひそめて餌を待つ虎口にも思えた。 「これはまた肝試しにお誂え向きじゃないか」 腕の中でニャンコ先生がうっそりと笑う。 「ほほう、これはなかなか」 車中で何かと不平不満を口にしていた青嵐も、常ならぬ空気に触れて舌舐めずりした。大方、好みの大物の気配でも感じたのだろう。しかしここで下手に他人の式神でも喰われたら、穏便には済まない。夏目はともかく、律達は今回は招かざる客であり、他の参加者から不審に思われず紛れ込まなければならないのだ。 「いいか、絶対騒ぎは起こすなよ。絶対だぞ」 律がもう何度目ともつかぬ釘を刺しているが、それが「押すなよ?絶対押すなよ?」の某クラブを彷彿とさせて、かえってお約束フラグを立てている気がしてならなかった。 「けけけ、ザマア」 「言っとくけど先生もだからな」 夏目の鉄拳でニャンコ先生も口を閉ざす。 そんなやり取りをBGMに(ついに慣れたらしい)、名取が腕時計に懐中電灯を当てて確認する。 「さすがにもう始まってるな。他の参加者に見咎められずにすんで、かえって好都合だったね」 「結構暗いですけど、迷いはしないですか」 玄関まで舗装されているわけでもなさそうだ。夏目は少し心配になって名取を伺った。 「大丈夫、参加者には道が分かるようになっているから」 どういう意味だろうという疑問はすぐに解消された。要所要所で立て看板を持った妖が佇んでいたからだ。急に現れるので心臓に悪かったが、慣れるとなかなか縁起でもなくシュールな絵面だ。 (葬儀場の案内じゃあるまいし) 的場関係の祓い屋達の集まり自体はこれが最初ではない。だからこそ過去の色々が去来し、一層の不安と抵抗感が呼び起こされる。妖を見世物や道具扱いしている祓い屋も多く、どうにも苦手だ。 「夏目も妙な筋の縁があって大変だな」 隣を歩く律から同情めいた口調で言われると、夏目も曖昧に笑うしかない。 「まあ、大変なこともあるけど、悪い事ばかりじゃないから」 ふうん、といまいち感情の読めない相槌が返ってきたが、案外特に何とも思ってないのかもしれない。 夏目はふと思い出して、言った。 「そういえば、飯嶋のおじいさんの小説、読んだよ」 へえ、と律の双眸が意外そうに瞬く。 「よく見つけたね。マイナーだし、絶版しているものも少なくないのに」 その言の通り、家の近くの図書館には置いておらず、蔵書は地区の中央図書館に1冊だけだった。当時高校生で、養父母に金銭的な負担をかけたくなかった夏目には、ネットで買うという選択肢はなかった。 「何というか、読んでてすごくリアルだった」 「まあ、それはそうだろうね」 「あと、妖怪のこと嫌いではなかったんだなって」 夏目がそう告げると、律は同意でも皮肉でもない形容しがたい微笑を浮かべた。視線を夏目から正面に戻して言う。 「妖魔は遠い隣人だから」 言い得て妙な表現だった。そう、彼らは気づかぬだけですぐ側にいる。隣に在って、違う世界に住む理解の及ばぬ存在。どれだけ否定したところで、望むと望まざるとに関わらず視えてしまう以上、排除することはできない。無視することも、逃れることもできないなら、自分が納得のいく形で折り合いをつけるしかない。 (でも、せめて遠い友人くらいに思えたらいいな) 相容れないものばかりではない。だが、必ずしも分かり合えるとは限らないことも、痛いほどよく分かっている。 それでも夏目は親しくなった妖と過ごすひと時が何にも代えがたい。人と妖が心を通わす瞬間が何よりも大切で愛しい。 隣人と表現する律と、友人と表現する夏目。それは、2人それぞれの妖に対する距離感を象徴するかのようだった。 「かといって巻き込まれるのは真っ平御免だ。3度目はないことを祈るよ」 愚痴めいた台詞に、夏目は苦笑いするしかない。律のこの容赦なさは相変わらずだ。 「2度あることは何とやらというぞ」 夏目の腕の中から飛び降りながら、ニャンコ先生がいじわるそうに横槍を入れた。 「もうこれはアレだ、フォースというやつだな」 最近のニャンコ先生はアメリカの某SF映画がお気に入りらしい。どこのジェダイが裏で糸を引いているというのだ。 追い打ちをかけるように後ろから青嵐が鼻をほじりながら重ねる。 「半人前と半人前を足したら一人前だそうだから、大方ニコイチと思われておるんじゃないか」 いつぞやの家鳴りの台詞を借りた揶揄に、夏目と律は互いに苦い顔をする。 青嵐は不意にあっと顔を険しくして、夏目を指さした。 「おい、そういえばそっちの餓鬼。お前、儂にハーゲンダッツ大カップ3個を約束したくせに、未だもらっておらんぞ」 「え?」 何となく聞き覚えがある単語に、夏目は大分忘れかけていた過去へ思いを馳せる。確かに青嵐の守護を引き出すためにそういう取引をした記憶がある。しかしその後にバタバタして別れたから、結局契約は不履行のままだった。 「いや待て、勝手に増やすな。2個だったはずだ」 「覚えておるじゃないか」 にやりと嫌な笑いをされ、夏目はしまったと思った。しらばっくれることもできたのについ正直に答えてしまった自分の性が憎い。まあ、今はバイト代もあり別に金欠ではないから、2個や3個問題はないのだが。「そんな約束してたの」と律は呆れ果てた顔で見比べている。 黙って先導していた名取は、その会話にたまらず噴き出した。 「少しいいかな」 笑いながら、足を止めて振り向く。何やら悪戯を企むような表情な。 「あそこ、見えるかい?」と言われるまま、示された暗い上空を振り仰ぐ。 よく見ると、暗闇の中、遠いところで何かがはためいていた。 月明かりもあまり無く、視界は極めて悪いはずなのに、それは何故かはっきり見えた。 (あれは―――着物?) 意識が吸い寄せられる。打掛のような着物が木々の天辺に引っかかっている。 名取が笑い含みの声で更に問いかけた。 「何色に見える?」 「え?」 色を問われて、一瞬キョトンとする。それからもう一度よく見つめた。あえて言えば、ワインレッドのような鮮やかな深紅だろうか。そう答えようと口を開きかけ、あれっと2、3度瞬きを繰り返した。 先ほどは気づかなかった蕾の絵柄が金糸に縁どられて浮かび上がっていたのだ。 よく目を凝らすと、その薄紅色の花弁がふわりと綻んだ。大輪の牡丹が広がる。次々に蕾が花開き、見る間に着物一面に広がり咲き乱れる。一体どういう細工なのか、プロジェクトマッピングでも見せられているかのような非現実的な光景に魅入られる。 「夏目」 名取に呼びかけられハッと現実に返った。着物はまだそこにあったが、柄は動いてはおらず、しかし最初に目にした時と異なり艶やかな色打掛になっていた。 「どうした?」 「いえ……最初はただの無地の濃い赤だったと思ったんですが、見ているうちに花が」 上手い説明が思いつかず途切れ途切れに言うと、驚嘆が返ってきた。 「さすが、というか予想以上だな」 どういうことかと首を傾げると、「あれは、いわばリトマス試験紙みたいなものなんだ」と急に現実味のある用語が飛び出てきた。理科の実験か。 「あの着物は、人によって見える色が微妙に違うんだ。妖力があるほど赤系に寄って見える。中でもとりわけ力が強い者になると、着物の柄まで見えるという。ちなみに静司にも模様が見えるそうだよ。けれどそれが動いたという話は聞いたことがない」 夏目は瞠目して、着物を見上げる名取の横顔を凝視した。 「私も濃い赤には見えるが、さすがに柄までは分からないな」 微笑を刷く右目の上をトカゲの尾が掠めていく。 夏目としては素直に喜ぶべきところなのか微妙な心地になった。見えることが齎すモノは必ずしも恩恵ばかりではないと身に染みているからだ。 それで、ふと先程から静かな隣を伺った。 「飯嶋は?」 夜空に向けられていた顔が夏目を見返し、一瞬の間をあけてからにっこりと笑った。 「さあ、特には何も」 嘘だ、と夏目は心中で突っ込んだ。雑か。 「何せ暗いし、近頃目が悪くなって」 (絶対嘘だ) あれは妖と同じく、現実の視力に左右されるものではない。十中八九見えていたはずだが、当の本人はあくまでしれっとしている。先に夏目が答えてからくりを聞いたから、これ幸いにと知らんぷりを通す気らしい。 明らかにわざとらしいというのに、あまりに爽やかな笑顔で堂々と言い切るものだから、かえってツッコミにくい。これが作戦だとすれば呆れを通り越して天晴だ。もっとも、夏目と違い律は名取をそこまで信用しておらず、なるべく自身の情報を与えたくないという防衛反応なのだろうとは想像はつくが。 同じ見鬼でも、どうも夏目と律の間には若干の差異があるらしい。より見えやすいもの、波長や相性が微妙に違うようなのだ。それゆえ、その目にどのように映ったのか少し気になっただけに、ちょっと残念だ。 「そんなことより早く行こう」 律が促すと、名取もあえて追及するのも野暮と思ったらしく、苦笑気味に再び歩き始める。視界の隅でニャンコ先生と青嵐は先程から何やらヒソヒソと話し合っていた。「早い者勝ち」「恨みっこなし」と聞こえるあたりロクな企みではないだろう。馬が合うのか合わないのか分からない2匹だった。 いくらほど歩いたところか、向こうの方に明かりがチラつく。暗がりでも分かるほど大きな屋敷だ。大正浪漫風というのか、黒い木材と白い漆喰を基調とした和洋折衷の建築は歴史を感じさせた。夜の迫力もあって、家の構えには迫りくるような偉容がある。 「もうすぐ着くけど、えっと飯嶋君? 君とお父さんはこれを付けておいた方がいい」 名取は鞄の中から畳まれた布を2枚取り出し、律に渡した。広げると、墨で文字の書かれた顔布だった。見覚えがある。そういえば夏目も、初めて的場一門の集会に忍び込んだ際、付けるよう言われたものだ。 「その顔布には私の術がかかっているから、口さえ開かなければ妖だと誤魔化せる。今回、私と……まあ一応夏目も招待らしきものを受けているからともかく、君達は招かざる客だ。バレるとあとあと面倒になる」 律は無言で頷いて、片方を父親に手渡す。青嵐は非常に嫌そうな顔で駄々を捏ねていたが、律が何やかにやと説得すると、最後には渋々承知した。彼は紛れもなく妖なのだが、ガワが人間だからややこしい。 「ニャンコ先生はとりあえず中に隠れてて」 ニャンコ先生はジャンプして夏目が開いた鞄の中に潜り込む。ずしっと肩紐が食い込む。こいつ、また重くなっていないか。 ドキドキしながら玄関に近づくと、黒い着物を着て鉄棒を持った三つ目の妖が不審そうにこちらを睨んだ。 「会合の出席者だ。道に迷って少々遅れてしまった。入ってもいいかい?」 招待状はないが、何か見えぬ目印でもつけられているのだろうか。 門番は名取と夏目を頭から足先まで見やって、無言で扉を開けた。 全員が無事屋内に入り、背後で戸が閉まるや、夏目は胸をなでおろす。緊張で止めていた息が長々と漏れた。 目を上げると、玄関は広く、中央に階段があり、途中の踊り場から左右に分かれて2階につながっている。手すりは艶やかに光り、臙脂色の絨毯張りの上をシャンデリアの照明がゆらゆらと斑な影を描いていた。まさに絵にかいたような和風洋館だ。しかも珍しく土足OKらしい。 「会合は1階の広間であっているはずだ。私と夏目はこのまま向かうが、君らはどうする?」 律は布をちらっと指でつまんで名取を見た。 「できればすぐにでも人形を作った術者を見つけたいですが、人目のある中で迂闊に動けなそうなので、とりあえず屋敷内に晶ちゃんの痕跡がないか探してみます」 「分かった。術師の方は私達が探ってみよう。何か分かったら連絡するから」 言いながらスマートフォンを出した名取に、律は手の平を向けてきっぱり告げた。 「あ、僕携帯持ってないんで」 「え」 この時代に携帯電話がない人間など、妖の存在以上に信じがたい。今時お年寄りでも持っているというのに。一体どうやって家族友人と連絡を取り合っているのだろうか。 「無暗にあちこち繋がるなんて怖いから」 平然と言ってのけるあたり、さすが飯嶋、と夏目はもう色々感心するしかなかった。 |