夏目もまた、はたと我に返る。目の端に今も光の花弁がちらつく。今しがた見えたものは一体何だろう―――? 未だぼんやりしている視界のまま、何かに呼ばれた気がして首を巡らし、足下を見て瞠目した。 そこには、きちんと紋付を纏いチョコンと礼儀正しく端座する小さな白蛇の姿があった。 目が合った瞬間、何故か分かった気がして、尋ねた。 「……俺を呼んだのはお前か?」 蛇はつぶらな瞳できゅるりと夏目を見上げている。口からシュルリと舌が踊った。言葉を発することができないのか、それでもただじっと見上げてくる瞳を見つめ返していると、脳裏に自分のものではない情景が見えた。土に近いところ。影が落ち見上げると、大きな手が迫っていた。その指の隙間から見えたのは、強張った笑みを張り付かせる川崎の顔。そこで夏目は気づいた。ああそうか、この蛇は川崎が式の核としていたモノ。苦しみと憎しみと、それを上回る悲しみが伝わってくる。これは蛇の記憶だ。 肥大化した怨念と憎悪の大半を食いつくされ、山の念とともに浄化されて、最後に残った元の蛇の心。 「そうか、お前は助けを求めていたんだな―――」 彼は、彼女はずっと苦しんでいた。あるいは彼らか。 同胞を食らい続けながら救いの叫びを上げていた。ようやく届いた細い細い一本の線の先にいたのが、夏目だったのだ。自由にならぬ身体と意思で、僅かに残る素の魂の力だけで、思いをあの招待状に託した。どうかこの苦しみに終止符を打ってほしいと。 だが一度命を絶たれ、妖気を帯びた魂は、元の蛇にも、あるべき輪廻の輪にも戻れない。 「俺のところでよければ、一緒に来るか? みんな優しい妖だ。きっと歓迎してくれる」 そっと手を差し出すと、蛇は得たりと頭を下げ、するすると掌に乗った。 にわかに響いた盛大なゲップに、ハッと我に返った。夏目は廊下に佇んだままだった。友人帳の入った鞄がもぞもぞしたので見やると、隙間から蛇の尾が覗いていた。クスリと笑う。 『はー喰った喰った』 『久々に歯応えのある大物じゃったわい』 見やれば大犬と龍がそれぞれ満足げに畳に身を投げ出し膨らんだ腹を晒している。せっかくどちらも美しい姿形をしているというのに、おっさん臭い言動の所為で威厳も何もあったものではない。すっかり形無しの台無しだった。正視に耐えず夏目は両目を手で覆い、名取は最早思考を放棄したのか無言である。 「……いいなぁ」 耳に触れた羨ましげな響きに、夏目はハッと顔を上げ声の主を見やった。彼は神々しさ半減の妖2匹を眩しそうに眺めていたかと思うと、その後口元に手を当ててクスクス笑い出した。 「それにしても、まさか招かざる客までいたとは」 的場の眼が愉快でたまらないと言った風に夏目と律を往復した。 自分のことを言われていると気づいた律が、今更のようにギクリとして振り返る。背後の従姉とその彼氏を隠すようにささっと後退り、警戒心を露わにした。 的場は夏目に問いかけた。 「君のお友達ですか?」 「あ、いや、えっと」 「違います」 間髪入れぬ即答に、的場が片目を丸くし、夏目はガクッと膝から崩れそうになった。 律にしてみれば“友達”と称するものにロクな思い出がなく、そのワードは最早何かの良からぬフラグにしか感じられない。何せ1人からは小学校時代に生贄にされかかり、1人からは今現在理不尽かつ命がけの遊びを仕掛けられており、極めつけがいずれも人間ではないと来ている。友人とは?状態である。 だがそんな事情を知らぬ夏目は思わず「飯嶋、お前……」と唸った。それを耳聡く聞きつけた的場がピクリと反応をする。 「『飯嶋?』」 呟き、律に顔を向ける。 「君は飯嶋と言うのですか?」 その問いかけに、夏目はしまったと口を覆う。律は何が何だかさっぱりという面持ちだ。 的場はしばらく考え込むようにし、ちらりとゴロ寝している妖怪らに横目をくれた後、ふと微笑んだ。 「なるほど」 納得した風に頷いたかと思えば、何の前触れもなく矢をつがえた。鏃の先が指すのは律だ。 「え」 律がぎょっと顔色を失って身を退く。夏目が待ったと制止するよりも早く、弓弦の音が響いた。あっと間抜けな声が出た。 一瞬の後に上がったのは、 『イッタ―――!!』 青嵐の半泣きの悲鳴だった。夏目をはじめ、名取までもがポカンと口を開く。 矢が放たれた瞬間、青嵐が瞬時に両者の間に立ちふさがり、律を守ったのだった。 『ま、またしても鱗が……』 涙目が見つめる先には矢に抉られ欠けた鱗数枚。 「飯嶋、大丈夫か!?」 傍に駆け寄る。律は半ば放心していたが、「まあなんとか」と存外しっかりした声で返した。こういう不測の状況に慣れている様子が垣間見え、他人事でもない夏目は心の底から同情した。 『おいキサマ。何をしてくれとんじゃ!』 青嵐は一転してギロリと矢を放った凶手を睨みつけた。姿が姿なだけに相当の迫力があるが、的場は涼しい顔だ。 「ふむ……加減したとはいえ、それなりに力を込めたのですが、表面を削っただけとは」 「静司」 さすがに見咎めた名取が厳しい声音で知己の名を呼ぶ。 「人に矢を向けるなんて」 「試したかったんですよ。猫ちゃんが夏目君の式神というのは知ってるが、まさか新しい式神も味方につけたのかと」 『私は式神じゃない』 『儂は式神じゃない』 ほぼ同時に二匹が異口同音に反駁する。 的場はきょとんとして瞬きをし、何が面白かったのか楽し気に喉を震わせた。 「改めまして、飯嶋君。私は的場静司と申します。祓い屋をとりまとめる的場一門の当主でしてね。突然ですが、祓い屋に興味は?」 目を細め、的場はそう口にした。律の顔がすんと無表情になった。 「あいにく興味ありません」 「君も夏目君と同じく、強い妖力を持っている。昔から妖達に襲われて苦労してきたのでしょう? 家族や自分の身を守る術を身につけたくないですか」 「全く思いません」 けんもほろろで取り付く島もない返答に、さすがの的場もやや鼻白んだ様子だった。 「そういわず、ちょっと試してみるだけでも」 「うちはそういうのに手を出さない家訓なんで」 約1名を除き、とは律の心の声だ。 「それは、飯嶋蝸牛の教え?」 「……祖父を知ってるんですか」 「そりゃあ、この業界では有名ですし」 夏目レイコと並んでね、と微笑を浮かべる的場に、夏目と律は何とも言えない表情で見合った。互いに心中は同じ気持ちだろう。 「頷いてくれるまでお宅に通い詰めるという手もありますが」 「やっても無駄だと思いますけど。うちの異常さは家族親戚中周知の事実なんで、みんな答えは同じですよ」 約1名を除き、と再び心で補足してから、「いや開おじさんは同族嫌悪で一番拒絶するかな、群れるより自分一人で好きにやりたい派だし」と思い直す。何となく、強い妖魔への執着だの高い霊力への積極性だの、あわよくば自分の護法神を狙ってくる未だ心は20歳の叔父と同じ匂いを目の前の青年から嗅ぎ取った律であった。 そんな律の心理を知らず、夏目はといえばつい羨望の眼差しを向けてしまった。自分とは異なり、律の場合は肉親全員が特殊性を理解しているらしい。あるいは皆、遺伝的に霊力のある体質なのかもしれない。隠さないでよいというのは何とも羨ましい。自分も言えればいいのだが、どうしても過去のトラウマと藤原夫婦に心配をかけたくないという気持ちが勝ってしまい、まだなかなか言い出せずにいる。 「……なるほど、君のおうちは皆知っているということですね。では考えを改めなければ」 興味深そうに言う的場を夏目は睨みつけた。 「飯嶋んちにまでちょっかい出さないで下さい」 「ほう、夏目君はお友達思いですね。何なら君が代わりに入門するという交換条件でもいいですよ」 「お断りします」 最初から分かっていたというふうに的場は肩を竦めた。妖力あるものへの貪欲さは相変わらずだなと口に出さずぼやく。年々妖力を持つ者が生まれにくくなっており、あるいは能力を失って祓い屋業を畳む家が増えている現状は、随分前に聞いていた。的場がそれを何とか留めようと奔走していることも知っている。そこへ来て、血縁で霊力を受け継いでいる飯嶋家の存在は的場にとってみればこれ以上もない理想の一族だろう。 しかし、自分が律を連れてきたせいで飯嶋家が的場一門に粘着されるのは絶対に避けたい夏目だ。 『的場、的場―――ほっほう、思い出したぞ眼帯小僧』 不意にじいと黙って睨めつけていた青嵐の目がにんまりと細まった。思わぬ発言に的場がふと訝し気な表情を見せる。 『たしか妖魔との取引で右目を対価としながら、その約束を反故にして今だに逃げ回っている奴だろう』 「……正確には私ではなく、先祖がですが」 『塒に返って調べてみるがいい。先代だか先々代だかは知らんがかつてその妖魔の取り立て現場にたまたま蝸牛が居合わせたことがあってな。匿って追い払ってやる代わりに、飯嶋の血筋には一切手を出さないことを約束させたのさ。その時の証文がどこかにあるはずだ。もし契約を破れば、取り立ての手は今以上に厳しくなろうて』 愉快そうに笑う青嵐を律は吃驚した目で見上げた。お祖父ちゃんが、と無意識に独り言ちる。 夏目もまたその事実に驚いていた。律の祖父がよもや生前的場一門に関わっていたとは。 「……」 的場は表情を消し沈黙した。口を挟まずやりとりを見守っていた名取が若干ハラハラした面持ちで反応を窺っている。 やがて、黙り込んでいた口からふっと溜息とも笑いともつかぬ吐息が漏れた。 「……そういうことであれば仕方ありませんね。知らなかったとはいえ、失礼しました」 諦めた風情でやれやれと目を伏せてそう言った。 夏目も思わずほっと息をついた。知らず緊張していたらしく、掌に汗を掻いていた。 「ひとまず今回の騒動はこれで解決です。川崎さんの身柄はこちらで預かり、警察にでも突き出します」 そう言って首だけで名取を見返り「君の式神に手伝ってもらっても?」と尋ねた。名取は快く了承し、控えていた瓜姫と柊に命じて床に伸びている男を運ばせる。 「夏目君、飯嶋君。今回は君達のおかげで大きな被害もなくすんなりと収拾がついた。礼を言います」 本当にありがたみを感じているのか甚だ怪しい口吻で的場はそう言い、踵を返す。 「静司」 去ろうとするその前に立ちはだかって呼び止めたのは名取だ。伊達眼鏡の向こうの目つきは厳しい。 「どうして今日この時間に会合を招集した」 「……」 物言わぬ相手に、名取の双眸が一層険を増した。 「お前、本当は川崎の式を狙ってたな」 的場の唇からクスクスと笑いが零れた。「バレました?」 「最初から妙だとは思っていたんだ。どうせ川崎の目論見も最初から知っていて、泳がせていたんだろう。大方、山王の御神体を盗ませてから捕まえて、奴の持つ式ごと自分達のものにしようとか考えていたんじゃないか」 「やれやれ、よくお分かりですね」 全く悪びれる様子もなく、名取は目を細めて認めた。 それを見て夏目は背筋が寒くなる。まさか全て計算づくだったのか。川崎に計画を実行させることによって、関係のない他人に被害が及ぶと分かっていながら。 「もし調伏できるなら的場のモノにと思ったんですが……結局招かざる客 夏目達にちらりと隻眼を向け、肩を竦める。 「まあ、周一さんもご苦労様」 「……」 すれ違いざまにぽんと腕を叩かれ、名取は苦々しそうに眉を顰めたが、結局文句は言わず嘆息をついただけだった。 的場の姿が廊下の向こうに消えるや、夏目は盛大に長嘆息して座り込んだ。何だかものすごく疲れた。 「僕らのせいじゃないし他人を巻き込みやがって」と大層ご立腹だった律も、やがてげっそりした様子で、のろのろと衣櫃に近寄り、暢気に寝ている二人を揺り起こす。何度かするうちに、ようやく目が覚めたらしい晶と三郎は、一体自分たちに何が起きてそこにいるのか皆目見当つかずという風情で驚いていた。 「祠の前からぷっつりと記憶がないのよね。やだ、なんか痛いと思ったら頭の後ろに大きなタンコブができてるわ」 「儂も、晶を捜しに石段を上ってからがさっぱりだ」 二人とも首を傾げていたが、不思議体験は日常茶飯事(一方は不思議そのものの存在)なので、深く考えないことにしたらしい。ちなみに、晶の白無垢の帯に人の字がかかれた小石が挟まっていた。それは新しい方のようで、古い御神体はどこを捜してもなかった。きっと“彼ら”が持ち去ったのだろう。 大広間に戻ると、七瀬達がうまく采配を振るってくれたおかげか軽傷者は手当てがなされ、重傷者はすでに運び出された後だった。 「どうやら何とか済んだようだね」 七瀬は五体満足で返ってきた夏目らを一瞥し、眼鏡の奥でにやりと笑った。その後ろに、見慣れぬ数名を認めた時は一瞬怪訝そうな顔になったが、「私は彼らを先に村まで送ってくるので」と名取が強引にその場を辞したので質問攻めに会わずにすんだ。 そそくさと館から出て、車のあるところまで目指す。しかし六人では人数オーバーだ。さてどうしたものかといういうところで、青嵐とニャンコ先生がそれぞれ護衛対象を“食後”の運動がてら運ぶという結論となった。とはいえ晶にその現場を見せるわけにはいかないので、「あとで別の人の車で送ってもらうから」と言い訳して、三郎と二人先に名取のセダンに乗せる。晶は有名俳優が実は裏で祓い屋(さすがに館のことは誤魔化せなかったので会合の話まではしてあった)をしていたということにえらい興奮気味で、名取を質問攻めにしていたが。ちなみに三郎はその隣で複雑そうな面持ちだった。 「じゃあ、晶ちゃんと三郎さんをよろしくお願いします」 「任せてくれ。安全運転で送り届けるよ」 運転席の窓からの爽やかな返答とともに颯爽と去っていくセダンを見送り、十分人の目がないことを確認しながら、夏目と律達もその場を後にする。それから間もなくの後、月夜の空を駆けていく大犬と龍の姿を目撃した者はいなかった。 斑の白くふわふわの毛の感触に癒しを感じていた夏目は、隣で煌めく鱗の背にしがみついている律にふと声をかけた。 「飯嶋の従姉さんって、結局何であそこにいたんだろう?」 祭礼での出来事と晶について集落や大学の人々をどう誤魔化したものかと考えていた律は、「ああ」と曖昧な表情で説明した。 「多分、サンノーどんの嫁取り儀式の代行」 「代行?」 「サンノーどんの嫁取りっていうのは、恐らく山に溜まった負の念―――山の中で死んだ人とか獣の魂の蓄積を浄化する祭祀なんだ」 律の説明によれば、あの神体はサンノーどんの嫁の依り代であると同時に、サンノードンの負の念を溜める媒体みたいなものなのだという。昔から山神信仰のある米作のムラでは、河原の石には穀精という山から下りた稲の神が宿るとされる。それを拾って山に返す儀式を嫁取りに見立て、巫女役が依り代の石を取り換えることで穢れをリセットする。そうやって長い間祭祀を継承してきた。それが八朔祭だ。 ところがその負の念が詰まった古い 三郎が巻き込まれたのは、晶との縁に加え、彼の特殊な出自とその能力のためであろう。しかし律はその辺の裏事情は割愛した。 晶があそこに現れたのは、律の存在も理由だろう。律は先導役の 「夫を捜して追いかけて……か。何だか、人間みたいだな」 夏目はしみじみとつぶやく。一瞬だけ見えた白無垢の女性は、愛しげに夫を抱きしめていた。神にも妖にも、誰かを慈しむ心がある。それだけで胸がじんわりと温かくなる。 「まあ妖魔も神も、そういうものだからね」と律も微笑んでいた。 「なあ、飯嶋」 「ん?」 「あの着物、結局飯嶋にはどう見えてたんだ?」 「……」 律はしばらく押し黙ってから、地上に目を落とした。そこに何かを見出そうとするかのように。 「深紅から白く染まって、最後は鶴になって飛んでいったよ」 まるで白無垢のように。 夏目は微かに笑み、そっかと言った。 |