おかしいと気づいたのは、歩いてから三十分ほどしてからだった。
 暑い暑いと舌を出して五月蠅く文句を垂れる青嵐に辟易しながら、律は段々疑問に感じ始める。

(三丁目って、こんなに遠かったっけ?)

 二人は祖母から貰った地図通りに歩いて来ている。
 しかし律が考える限り、それほど距離のある道のりではないはずだ。
 そう言えば、周りの景色にも、近所であると言うのにあまり見覚えがない気がする。
 変だな、と思ったところで、青嵐が「あれではないのか」とひょいと指を差した。
 その先を目で追えば、低めの垣根の向こうに一軒の家があった。二階建ての白い壁と屋根の青瓦が陽に反射している。地図を見て確認すると、確かにこのあたりである。電信柱の番地も間違いなさそうだった。ぐるりと玄関側に回ると、門の横の郵便受けの上に「西山」と楷書で書かれた表札がはめ込まれていた。

「確かにここだね」

 ホッとした気持ちで律も頷く。しかし間近で家を見て、何とも嫌な心地になった。

「なんか嫌だなぁ」

 家全体から立ち上る気配に、ぞわぞわと背中が不快感を訴える。とはいえ使命を果たさねば帰れない。

「なあに、何かあれば私が食ってやるさ」

 青嵐が楽しげに舌舐めずりをした。いつになく仕事熱心な発言だと感心しかけたが、直後に聞こえた腹の虫の声に、やはりこっちが本音かと溜息をつく。
 律は諦め半分にチャイムを押す。
 ところがどれほど待っても中から人が出て来ない。

「留守か?」

 青嵐が鼻白んだ様子で家を見上げる。

「でも、玄関開いてるよ」

 門から少し離れたところにある家の戸口が開いている。そこからでは人の姿は窺えなかったが、まさか出かけるのに玄関の戸締りもせずというのはあまりに不用心だ。

「さっきチャイムを押したとき音が鳴らなかったし、壊れてるのかもしれない。入ってから声をかけた方がいいかも」

 律の家もそうだが、このあたりではまだこういう訪問の仕方は通用している。
 律は門の取っ手を回してみた。鍵はかかっていない。
 きい、と門を開けて、中に入る。しかし玄関の中に足を踏み込んだところで、ぞわっと一際大きな悪寒が襲った。

(これはまずいかもしれない)

「大物の気配じゃな」

 青くなる律に対し、青嵐は目をきらきらとさせている。

「がっつくなよ。一応人様の家なんだからな」

 小声で釘を差しながら、「ごめんください」と大きな声を中にかける。
 果たして反応はなかった。むしろ家中に人の気配がない。

「やはり留守なのではないか?」
「そうならそうでさっさと帰りたいんだけど」

 長居したくない律が首をひねったところだった。
 俄かに走った違和感。ハッと背後を振り見た時には、それまで開いてたはずのドアがいつの間にか閉じていた。
 慌てて取っ手に飛びつくが、どれだけ回そうと開かない。ガチャガチャと音だけが空しく響く。

「・・・・・・まずいぞ」

 恐る恐る手を離しながら、律は茫然とする。

「こいつは誘い込まれたな」

 青嵐が至って冷静に状況判断を下す。

「ボディーガードだろ! 何で気づかないんだよ!」
「お前が中に入ると言ったのだろう。大体、外からはそれほどの力は感じなかったからな」

 言いながら、青嵐の視線が奥へと向けられる。

「何だって西山さんの家が・・・・・・!」

 あーもうっと髪を掻き毟りながら、律は訴える。先ほどのおかしなモノに目をつけられたのかもしれない。

「とはいえ、私にも気づかせずにここまで誘導するなど―――

 ブツブツ言いかけてから、面倒になったのか「ええい」と青嵐が吼えた。

「面倒じゃ。ぶち破るぞ」
「ええっ」

 仮にも人様の家。こんなところで青嵐に本性になって万が一人に見られても困るし、破損罪で訴えられたらどうすればいいのか。
 しかしそんな人間の事情になど取り合わないのが妖だ。

「うるさい、大体にしてお前がほいほい誘い込まれるのが悪い」

 そんなこと言って、早く帰ってアイスが食べたいだけなのではないかと律はつい穿った見方をする。

「帰るぞ!」

 止める間もなく父の身体から出て龍の姿となった青嵐がその勢いで玄関を突破しようとする。
 だが。
 扉に衝突した瞬間、バシンという派手な打音がして弾け返った。

「いった――――!」

 龍が大口を開けて叫んでいる。
 一方扉は無傷だ。

「青嵐! 大丈夫か」

 慌てて駆けよれば、

「大丈夫じゃないわい! ウロコが二枚剥げたわ!」

 半泣きになりながら訴えられた。

「・・・・・・もしかして、出られない、とか?」

 ひくついた笑みで恐る恐る訊く律に、憮然としながら青嵐は言う。

「結界のせいで出れぬようじゃ」

 一拍後、「何だって―――!!」と悲痛な声が上がった。






「何か、変だっ」

 夏目は足を止め、はぁはぁと肩で息をした。あとからあとから垂れてくる汗をぬぐいながら、周囲を見回す。

「確かにこっちだったと思うのに・・・・・・」

 どう見ても見慣れぬ風景だった。

『迷ったな』
「先生だって気づかなかったじゃんか」

 バーカバーカと揶揄する猫に蹴りをかまして、来た道を見返す。
 どこかで曲がる場所を間違えたのかもしれない。しようがないのでまた道を戻り始めた。
 ところが、行けども行けども、見たはずの道に至らない。

「あれー? 何で・・・・・・」

 自分は決して方向音痴な方ではないはずだ。これは一体どうしたことだろう。早く行かねば彼らが心配する。
 せめて誰か通ってくれれば道が訊ける者を、通りにはひとっこひとり影がない。

「しょうがないや、そのあたりの家の人に聞くか・・・・・・」

 そう呟きながら視線を彷徨わせれば、ふと広い庭の家に目がとまった。
 低い垣根の向こうに開放された縁側が見える。
 その薄暗い内側に人の足を見て、夏目は迷わず近寄った。

「あの、すみません」

 さすがに中に入るのははばかられて、垣根に設けられた門の方から声をかける。
 中の人は寝転がるようにこちらへ足の裏を見せている。どうやら男性のようだ。

「聞こえないのかな?」

 はぁ、と息を吐いて呟けば、隣で垣根をよじ登ったニャンコ先生が囁いた。

『寝ているのではないか』
「そうかも」

 もう一度今度は大きめに声を張り上げた。

「すみません、ちょっと道をうかがいたいのですが」

 しかし二本足はピクリとも動かない。
 夏目の頭に不安がもたげた。
 本当に寝ているだけなのだろうか。

「あの!」

 今度こそ、叫ぶくらいの大声をかける。それでも反応はない。
 大体にして寝方がおかしい。渡り廊下から座敷にかけて横たわっている。

「どうしよう・・・・・・もしかして、中で倒れてるんじゃ」

 夏目の脳裏に最近テレビで流れたニュースが過ぎる。地球温暖化。年々徐々に上がる気温。室内で熱中症にかかり死亡するケースが多発―――

『おい夏目、気をつけろ。この家どうも妙な気配が―――って夏目!』

 ニャンコ先生の制止も聞かず、夏目は門に手をかけていた。門は難なく開き、夏目を招き入れる。背後で先生がやかましく何かを言っていたが、夏目には届かなかった。不思議なほどその時は『中に入らねば』という衝動がどうしようもなく弾けたのだった。思えばそれこそが罠であったのかもしれない。
 ニャンコ先生は舌打ちをしつつ慌てて夏目の後を追う。背後で門が独りでに閉まるのに、二人は気付かぬまま足を踏み入れていた。

「あの・・・・・・」

 夏目は縁側から覗きこむようにして、足の主を見た。
 男は痩せ気味の中背ほどで中年だった。四肢は投げ出され、顔からは眼鏡が外れかけている。少しためらってから、「おじゃまします」と小さく断って靴を脱ぎ上に上がる。
 側に寄ってみれば、薄く開いた半目が虚空を見つめていた。
 息を、していない。

『こいつは死体だな』

 ふんふんと側に寄って鼻を動かしながら先生が言う。
 死体。

「・・・・・・っ!」

 あまりの生々しさと衝撃で、夏目は悲鳴を漏らしかけた口を押さえ後じさった。がん、と背中がガラス戸に当たった。
 ―――ガラス戸?
 違和感に背後を見やる。
 それまで開放されていたはずの縁側には、いつのまにか戸締りをした後かのようにガラス戸が閉まっていた。

「閉めたはずは―――・・・」

 どくりと心臓が鳴った。
 口中で唾が粘つく。
 そろそろと戸へ手を伸ばし、引いてみた。しかしガラス戸はガタガタと不快な音を立てるばかりで、開かなかった。
 鍵も閉まっていないというのに。

「っ! 先生、これって!」
『閉じ込められたか』

 ニャンコ先生は苛立った声音で低く告げる。低い姿勢なのは警戒しているためか。

「閉じ込めって、一体誰に!」
『当然人間ではないな』
「それって・・・・・・」

 妖怪。
 さあっと夏目の面から血の気が引く。

「まさか、また友人帳の・・・・・・」

 ぐっと己のカバンを強く握りしめる。汗が背を伝う。

『まだそうとは限らんが、最初から嫌な気配だけはしていたからな』
「気づいてたんならなんで止めてくれなかったんだよ!」
『止めたのにお前が勝手に突っ走ったのだろうが!』

 青筋を立てて起こる猫に、「・・・・・・そうだっけ」と夏目は脱力して呆ける。そのあたりの記憶が曖昧だ。

「ど、どうしよう」

 こういうパターンは初めてだ。いつもならば、名前を返して欲しい妖は初めから姿を見せるなど、分かりやすく接触してくる。けれどこんな風に姿を見せぬまま一方的に誘い込まれるというのはついぞない。

『いずれにしろ向こうが何かしら行動に出るのを待つしかあるまい』

 ニャンコ先生は夏目に比べれば大分落ち着いていた。それが幾分か夏目の救いとなった。
 そうだ、こんなところで混乱しているわけにはいかない。
 何が望みかは分からないが、自分が何かできるならば、話を聞いてやりたい。助けを求めているなら、力になってやりたいとも思う。
 それが今の夏目の、妖怪に対するスタンスだった。

「でもこの死体、どうしよう・・・・・・」

 途方にくれたように、死体をちらりと横目で見る。気分的に直視はできない。

『見たところ死後それほど経ってはいぬようだ』

 さすが妖怪の先生は人間の死体ごときに怯えることもなく、興味深そうに周りをウロウロ回っている。

「この家の人なのか?」
『いっそ食うか?』
「食うな!」

 猫の頭に鉄拳をぶちこんで、そろりと立ち上がる。死体を見ないようにしながら回避し、奥へ踏み込んだ。
 畳と襖に木造の壁。
 どこか不気味に薄暗い。

(落ち着かない・・・・・・)

「電気ないかな」

 とりあえず手始めに家の中を探索してみることにする。しかし大分古い家なのか、内側は昼だというのに視界が暗い。
 夏目はともすれば引けそうになる足を根気で動かしながら、電気のスイッチを探す。

「うーん、ここじゃないのかな? 廊下かな?」
『おい、あまりウロウロするんじゃない』
「でも待っててもしょうがないし」

 言い合う二人の背後でゆらりと空気が動いた。

『夏目!』

 察知した先生の一声で、夏目はハッと振り向く。
 するとすぐそばに先程の死体がこちらを見降ろし―――

「お前ら・・・・・・」
「わぁ――――――!」

 盛大な叫び声と共にゴチーン!と派手な殴打音が響き渡った。

「いって―――――!」

 死体も悲鳴を上げる。
 同時に向こうからドタバタと足音がし、物凄い勢いで襖が開いた。

「青嵐!?」
『何奴!』
「うわ――――!」

 二度目の叫び声には、カキーンといういい音と、『ぎゃわ!』という悲鳴が伴った。
 現われた第三の人物は、襖を開けた途端飛びかかって来た不細工で怪しげな物体に、条件反射的にバットを振いきったところだった。後には顔面に赤い痕をつけた猫と、勢いでぶち破られた襖が残っている。
 夏目は呆気にとられながらそれを見ていた。
 そして現われた方もぜいぜいと肩で息をしながら、同じような表情を浮かべていた。
 やがて向こうからようよう口を切る。

「・・・・・・あんたら、誰?」

 それはこっちの科白だ、と夏目は思った。
10.07.24

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