「だめだ、何も見つからない」 凝り固まった腰を伸ばして揉みほぐす。話しているうちに、二人は隣室―――男性部屋のようだ―――とその更に隣―――こちらは書斎だった―――まで移動していた。元々個人の寝室は物少なだったためさほど手間はかからなかったが、書斎はかなりの難関だ。何せ本の量が半端ない。ためしに夏目が懐中電灯で照らしてみると、どっしりとした黒檀のデスクと揃いの本棚には、ミステリー、ノンフィクション、エッセイとジャンル雑多なタイトルが端から端までズラッと並んでいた。 うへえ、と律が嫌そうに顔を顰めるのが、懐中電灯ごしに見える。 同じくげんなりしながら、夏目はふとあることに思い至った。 「ねえ、そういえばさっきから気になってたんだけど・・・・・・この家って今空き家なんだよな」 箪笥には服が仕舞われ、棚には物が収納されている。埃臭さはなく、まるで今も人が住んでいるかのように生々しい。けれども生きた人間の活動する匂いのない、矛盾した不気味さ。 「どうだろ。僕は西山さんって人の家のつもりで訪れたけど、家鳴りの言い方だとまるでしばらく誰も住んでいないようにも聞えたし」 まあ人間界の常識が通用しないのが幽霊屋敷だから、あまりそこは深く考えない方がいいんだろう、と律。そんなものかと夏目はひとまず納得しておくことにした。 手分けして本棚に取りかかる。律が上から、夏目が下から順に見て行くことになった。本を取り出す際、時折小物な物の怪が飛び出したりして、その度に二人して驚いたり悲鳴を上げたりする。 指先に震えを感じたのは、互いに二段目に差しかかった時分だった。 「あれ?」 夏目が上を見上げた瞬間、急にドンと強い揺れが襲いかかった。 地震に似た足元から来る重い揺れに夏目と律は本棚に縋ろうとしたが、飛び出した本が雨あられと降って来たので慌てて離れた。それぞれ物に当たりながら転びつまろびつ安全な所へ避難する。 壁や天井が揺れとは関係なく激しい音を弾かせた。バタバタと乱暴に駆け回るような、手で叩きまくるような、物を殴りつけるような、様々な音響。夏目は堪らず蹲り、耳を塞いだ。鼓膜が震わせられるたび、息苦しいほどに胸に痛みが差しこむ。一体何だこれは。急激な寒気。夏秋を飛ばして、一気に冬になったかのような冷気に総毛立つ。 ガシャンッと耳のすぐ側で鳴った物音にビクリとして見やれば、写真立てが拳一つ分のところに転がっていた。ガラスの割れた写真立ての中には仲の良さそうな五人の家族が写っている。なのにその顔は、どれも首から上だけがピンボケしたように滲み、笑っているのは分かるのに造作が判然としない。ぞっとした。 『去れ!』 夏目の傍らに転がってきたニャンコ先生が、憤慨しながらどこぞの虚空へ向かって一喝する。が、一瞬怯んだかに見えた怪異は、一拍の弱化後、余計に酷くなった。 『くそう、このややこしいモノどもめがっ』 物の怪の類ならばこれで大体効くのに、相手が死霊となると勝手が違うらしい。 「ええい、埒が明かん。一旦部屋から出ろ!」 飛び交うものに辟易した青嵐の指示に、律が夏目の袖をひっぱりつつ、戸襖に向かう。その最中、夏目は律の手とは別にひたりとした感触の何かが首や足首に触れた気がしたが、疑問も思考も脳から締め出し、真一直線に駆けた。目の前には玄関が見える。 一歩縁を跨いだ途端に、むわりとした生暖かい湿気に迎えられた。襖を隔てた廊下はシンとして、何事もなかったように素知らぬ顔で静まり返っている。 浅く肩で息をする。背中にも腕にもじっとりと冷や汗を掻いていた。服が張りついて気持ち悪い。あまりに強く握っていたせいか懐中電灯を持つ指が強張っていて、動かそうとするとぎこちなく軋んだ。あの中で手放さなかった自分に感動する。鼻の下の汗粒を拭い拭い律の方を窺い、ハッと瞠目する。 「飯嶋、それ」 光に当たった腕に十五センチほどの赤い線が走っている。ジワリと滲んできた血を見て、律が「痛ぁ」と今更唸った。 「暗くてよく見えなかったけど、なんか刃物的なものが飛んできた気がする」 「大丈夫か」 「夏目こそ」 え?と目を瞬くと、「首」と心持ち頬の筋肉を引き攣らせ律が指差した。 「絞められた痕がある」 バッと己の首に手をやった。しかし鏡がないから分からない。思い立って慌ててズボンの裾を捲ってみると、足首に赤黒くくっきりと人の指の形の痣ができていた。 しかしそれに声を上げる間もなく、背後でパシンと鳴った。 二人して弾け飛ぶように振り返ると、今しがた出て来た部屋の戸襖がピタリと閉まっていた。中からドンドン叩き「おい開けろー!」と怒鳴る声がする。 「ニャンコ先生!」 「青嵐!」 それぞれ馴染みの物の怪の名を呼び、取っ手を引っ張って開けようとする。が、接着剤で固めたみたいにびくともしない。体当たりをしても同じだった。柔いはずの紙の襖なのに、撓みすらしない。 「中から蹴破れないのか!」 動揺を抑えて律が声をかけるが、聞えていないのかもう試したのか、向こう側は依然騒ぎ立てているのみである。 「飯嶋!」 夏目は叫んだ。血の気が引く。唐突に琴線に触れたもの。 気づいた律の顔も、さっと青くなった。 これは何だと、夏目は吐きそうなほどの動悸を覚える。 ・・・・・・ぎ、ぎい――― 息を飲んだ二人のいる空間に不意に木の軋みが木霊する。 ぎい、ぎしり。 一段、一段と近付く音。 何かが降りてくる。 瞬きさえ忘れ、凝視する。目を離せば何が起こるか分からない強迫観念に襲われる。どくんどくんと心臓が鳴る。震える呼気が白く煙っていることに夏目は気づかない。 目を向ける先、階段の上には闇が広がっている。そこを照らす懐中電灯の淡い光の届くところに、足がある。膝から下の、人間の素足。身体は暗がりで見えない。 一歩ずつ、板を踏みしめ降りてくる。ゆっくりと。 男だろうか。徐々に灯りの輪に身体の部位が入ってくるが、見えるのは部分月食のように下半身以外がどうしても見えない。どこにでもある灰色とも青ともつかぬ綿の短パン。そして、光にきらりと何かが反射する。刃物。闇から顔を出した手が持つのは、斧の柄。 (・・・・・・!) 喉が萎縮して声も出ない。 階段を降りきった足が、止まる。そして再び歩き出す。 二人に向かって近付いてくる。 目の中に、キラリと光る刃。振り上げられた斧がスローモーションで映る。 「―――、夏目!」 鼓膜を貫く呼び声と、横合いからの衝撃。我に返った時、夏目は突き飛ばされ、廊下の壁にぶつかった。 眩暈のする頭を振って、顔を巡らす。逆側の壁に避けた律の姿がある。二人の間に振り下ろされたはずの斧はなく、足の主も消えている。だが 脅威は去っていない。悪寒は未だ付きまとっている。物の怪には比較的耐性がついた方だが、死霊には慣れていなかった。 夏目は浅く喘ぎながら、視線を落とした。 床に、裸足の爪先がある。 「!!」 風が空気を切り裂き、尻餅をついた頭上の壁に亀裂が走った。 ―――殺される。 本能的な恐怖が全身を覆った。 怖い。 「夏目、大丈夫?」 こちらに寄ろうとする律が視界に映る。が、その背後に、斧を振りかざす腕が――― 「飯嶋、後ろ!」 ハッとして首をねじった律が硬直する。身を捩ろうとする。間に合わない。 「わあ―――!!」 律が、叫びながら刃に対し顔を背け、庇うように手を掲げる。 「飯嶋!!」 斧が振り下ろされる。 悲鳴が劈いた。 襖越しの様子に只ならぬ気配を感じ、ニャンコ先生は短い前足でガリガリと紙を引っ掻いた。 『おい、何があっている夏目!』 だが依然このクソ忌々しい襖は開かない。 『この私を閉じ込めるなど笑止千万! というか冗談じゃないぞ、あやつに死なれちゃ困る。『友人帳』は私のものなのに! 夏目! 生きとるか!』 「チッ、しょうのない奴らめ」 隣の青嵐が見下した風に耳をほじった。『何おう』とニャンコ先生はプンスカ目を釣り上げるが、何せ元がにやけた顔なのであまり迫力はない。 『貴様、悠長にンなこと言っていいのか? 貴様の守っているあの人間も不味いことになっておろうが』 「ふん、一緒にするなよ」 私には智恵があるのさ、と到底頭がよさそうには思えない頭を指差してニヤリと笑う。 「ちょいとこの 『はあ?』 「一応は都合の良い恰好の『服』だからな。失くすのはまだ惜しい―――」 言うが早いか、その口が大きく開き、中から何かが飛び出した。 身体がぐらりと崩れ落ちる。ニャンコ先生の目には、中から飛び出したものの姿が捉えられていた。 律が悲鳴を上げながら布の巻かれた掌を翳すのと、光が放たれるのは同時だった。夏目には、律の掌からそれが出て来たように見えた。それから龍と書かれた字も。 一瞬の閃光に目を瞑り、次に開けた時には、斧の霊は気配ごと消え失せ、変わりに別の姿があった。 喪服に似た黒い着物を着た、長い髪の男が立っていた。電灯で照らしてもないのに、暗闇の中にも関わらずはっきりと見える。「逃げ足の速いヤツめ」と尖った犬歯の覗く口許を歪め、がりがりと頭を掻いていた。 「だ、誰?」 物の怪だとすぐに分かったが、危険な感じはなかったから、つい声をかけてしまった。 ん?と今更気づいた風に人型の物の怪が夏目をぞんざいに見やる。線の鋭い面に光る、細い眼に射抜かれ萎縮した。危険ではなさそうだが、雰囲気が怖い。だがどこかで知っている波動だ。どこだっけ? 「律はどこじゃ?」 一旦視界に入れておきながら、どうでもよさげに夏目から目を離し、キョロキョロと周りを見渡す。その声と態度で気づいた。これは『青嵐』だ。でも何故姿が違うのだろう。おまけに人型は人型だが、先程の初老の男の時は半ば人間のようだったのに、年齢不詳のこちらは完全に物の怪と分かる。体重を感じさせぬ姿勢に、袖に隠した手先を絵に描いた幽霊よろしく胸の前で垂らし、 「おい、餓鬼。律はどこに行きおった」 「え? ってそこに―――」 夏目は懐中電灯を向け、口を止めた。 廊下には夏目と青嵐の姿以外、何もなかった。 沈黙。 ようやくして青嵐の顔が歪められ、汗が浮んだ。 「あ、しもうた。勢い誤ってうっかり"吹っ飛ばして"てしまったか」 やってしまったわいと若干慌て気味に、両袖を振る。 妙に人間臭い挙動の物の怪を前に、夏目は尻餅をついたまま呆然と見上げるほかなかった。 |