『全く何故私がこんな腹の空くことをせねばならんのじゃ。さっさと帰ってアイスが食いたい』

 ぶちぶち文句を言う青嵐の後ろから、夏目は黙ったまま戦々恐々とついていく。
 どうしたことか、飯嶋律の用心棒を名乗るこの妖は、先ほどまでの人間の姿はどこへやら、本性を露わにしたまま行動している。まさか空間のねじれで、器である律の父親の身体と離れ離れになってしまったのだと知らない夏目にしてみれば、何がどうなっているのか全く分からない。ただ先ほどに比べ、同じ人型でもこの喪服姿の青嵐からははっきりと強い妖気を感じる。おまけに、じっと目を凝らすと、この人型に重なって、向こう側に別の影が陽炎のごとく薄ら揺らめく。

(何だろう・・・・・・蛇? にしては髭みたいなものが・・・・・・鯰? 泥鰌?)

 そこで、消える寸前に律の掌に書かれていた字を思い出す。

(ああそうか、龍だ)

 これほど大きく強い妖気であれば、本性はさぞかしなものであろう。力強くしなやかな神獣の姿を想像する。律はとんでもないものを連れていると感心した。そういう夏目も実は人の事は言えないのだが、本人は気がついていない。

「あの・・・・・・」
『何じゃ』

 恐る恐る声をかけると、青嵐は一瞥もせず応じた。

「飯嶋とニャンコ先生はどこへ行ったんでしょう」
『さあな』
「さあって」
『生憎、私にも分からん。この家は空間が歪んでおるからな』

 実際、廊下を歩いていたはずの彼らも気づけば闇の中におり、左右に延々と襖が続いている。当てずっぽうに襖を引いて中に入れば、今度はどこまでも畳部屋が続き、不意に先ほどの書斎に出るといった有様だった。おまけに、あれだけ散らかっていたはずの書斎は二度目に辿り着いた時には跡形もなく綺麗に整っていた。

『まあ死んではなかろう』

 随分無責任な言いようである。

『お前の連れの犬猫もどきは案ずる必要もあるまい』
(犬猫もどき・・・・・・)

 その表現に何とも言えぬ心地で、夏目は頷く。

『問題は律じゃ。どうなろうと知ったこっちゃないが、死なれるのだけは困る』

 やれやれと嘆息する様は全く心配している様子ではない。かといって全く薄情なのとも違う気がする。二人の関係がますます分からなくなった。ひとまず「飯嶋も苦労するな」と心の中で同情しておく。

「ところで、えっと・・・・・・飯嶋のお父さん?」

 どう呼んでいいのか分からないので、とりあえずそう呼ぶ。青嵐という名だと知ってはいるが、口にはしない。妖にとって名がいかに重いものであるか、友人帳を持つ夏目は誰よりも理解していた。
 『何じゃい』やや煩わしげにジロリと向けられた細目に怖気づきそうになりながら、夏目は思い切ってもう一つの疑問を口にする。

「何やらさっきまでと、お姿が違うようなのですが」

 つい変な敬語になってしまう。
 青嵐は気にした風もなく、鼻を一つ鳴らして往なした。

『中身は一緒だ、気にするな』
「気にするなと言われても」

 気にならないはずがないのだから難しい注文である。
 すると青嵐は肩越しに、にんまりと意味深で怪しい笑みを浮かべた。

『好奇心は猫をも殺すという。人間の身であまり異形のことを知りすぎると、お前も戻れなくなるぞ』

 夏目はぎくりとした。はっきりと一線を引かれた気分だった。人と妖では所詮住む世界が違う、踏み込みすぎるな、と。

『心配せんでも、あれは服みたいなものじゃ』
「はあ」

 すると今は素っ裸状態ということになるのでは・・・・・・と思ったが心の中だけに留めておく。そこでふと、この家に誘い込まれる前に縁側で見た飯嶋父の"死体"を思い出す。なるほど、ニャンコ先生の猫型のようなものかと思い至った。

「服、どこ行っちゃったんですか?」
『知らん。そのうち見つかるだろう』

 やはり適当である。
 間が持たず沈黙する。青嵐は特に宛ても考えもなく歩いているらしい。そのうち誰かに遇えるだろうと思っているのかもしれない。実際、夏目にも足を動かし続ける以外に方法が思い浮かばないから、大人しくついていくしかない。
 歩きながら居心地の悪い空気にそわそわし、夏目は少しでも気まずさを紛らわすべく再び口を開く。

「さっき、異形のことを知りすぎて戻れなくなるって」

 妖は聞いているのか聞いていないのか分からぬ態度で背を向けている。それに少し躊躇いを覚えながら、続けた。

「それって、もしかして飯嶋のこと・・・・・・じゃないですよね」
『ふん。律などはせいぜい片足を突っ込みかけている程度じゃ』

 どうやら聞いていたらしい。小馬鹿にしたように即答した。それから少し声音を落とすように、ぼそりと言う。

『蝸牛はもっと異形(われら)に近かった。誰よりも“違い”を熟知しておったくせにな』

 平坦な口吻は、詰りながらも懐かしそうでもあり、一言では言い表せぬ複雑な響きを宿していた。

「蝸牛・・・・・・飯嶋のお祖父さんですよね」

 そしてこの式神の元の主であるという。しかし青嵐はそうした様子を一切見せずに『そうじゃ』と素っ気なく言っただけだった。

「どんな人だったんですか」

 式神から見た人間の主というのが気になり、尋ねてみる。
 怖いもの知らずの奇人じゃ、と身も蓋もない一言が返ってきた。

『人の身で異形のことに首を突っ込み、我流の術で異界に関わって寿命を縮めた愚か者さ』

 嘲弄交じりの声音であったが、不思議とそこには一種の親しみのようなものが滲んでいた。どこか遠くを望むような響きは、これまでにも聞いたことがあった。親しい人間を失った妖は、皆このような声をする。夏目は、この式神が主と深い絆を持ち、だからこそ主の死後に、その孫の守護を任されたのだということを無言のうちに悟った。

『ところでお前の鞄の中のそれ(・・)、どこかで覚えのある気配だと思っておったが』

 不意に正面を向いたまま青嵐が言った。夏目の背にぎくりと冷や汗が滑る。

『思い出した。そういえば随分昔に見たことがあったな』
「・・・・・・え?」

 思い返す風に顎を撫でている人型の妖に、思わず歩調を早めて近づく。
 当然ながら夏目は青嵐に会ったことはないし、飯嶋家に訪れたこともない。つまり青嵐が見た昔というのは、前の持ち主である祖母レイコの時代に相違ない。

『それを持った女がある日蝸牛を訪れて来た。思えばお前に似た面だったかもしれん』
「ええっ?」

 夏目の双眸が丸くなる。ますます初耳だ。

(レイコさんが、飯嶋のお祖父さんに会いに?)

 青嵐は膨大な記憶の中からそこを掘り起こそうと試みる。



 あれもまた、暑い夏の頃。
 じりじりと蝉声の忙しない中に、白いワンピースに大きなリボンの麦わら帽子という涼しげな恰好をした、妙齢の女が玄関先に立った。
 当時まだ貧乏小説家であった若き頃の蝸牛こと飯嶋伶は、招かざる客人の来訪をすでに予知していたようだった。家中には他に誰もいなかったように思う。女の訪いはその時機を見計らってのことかもしれない。伶は女を客間に招き入れ、随分長いこと話をしていた。
 青嵐はその当時はまだ今ほどはっきりとした姿と自我を持っておらず、大きさも大分小さかった。伶の周辺を大気の一筋となってうろちょろしていたから、時折風を伝って主と客の会話の内容も聞こえた。女はこれまでの他の来客とは異なり、特別相談があるわけではなく、ただ話をしに来ただけだったようだ。一方伶の方は、腕を組み机の上に置かれた仕訳帳のような冊子を難しい顔で見下ろしていた。
 やがて用件を終えたか、客人はすっかり冷めた茶を飲み干し、暇乞いを告げて起ち上がった。
 上がり口まで見送りに出た伶は、女を見つめ忠告した。

「彼らは恨み深い。その名帳が将来、貴女の子や孫に禍するかもしれない。くれぐれも気をつけることです」

 女は引き戸を開け、差し込んだ外の陽光の中で麦わら帽子を被る。大きな縁が顔に陰を作る。

「そういう貴方もね。裏の雑木林なんて私でも入る気がしないもの」

 軽く見返って、一見優しげな風貌に不敵な笑みを浮かべてみせた。
 伶はそれ以上は何も言わず、嘆息した。

「お元気で」
「お互いに」

 憎らしいほど愛らしい微笑を残し、女は背を向けた。
 門までの道の間で、青嵐は風となって泳ぎ回っていたが、門までの長い道を歩く女に偶々鉢合わせした。

「あら驚いた。貴方もここの()?」

 帽子の下で悪戯っ子のような瞳が細まる。青嵐はシャアッと威嚇した。

「本当に妖怪屋敷ね。普段なら遊んでいくところだけど、あの人の縄張り内はやめとくわ」

 一人愉快そうに囁き、颯爽と通り過ぎていった。



 妖を支配下に置けるほどの強い霊力を持った男女二人は、その時一体どんな話を交わしたのだろう。
 青嵐の話を聞いて、夏目はぼんやりと己の祖母に思いを馳せた。

「その後、レイコさん―――俺の祖母が飯嶋のお祖父さんを訪ねたことは」
『ないな、その一度きりだ。この不愉快な気配を感じるまで忘れておったくらいじゃ』
「不愉快な気配・・・・・・?」

 青嵐は再び底知れぬ不気味な笑みを浮かべ夏目を一瞥し、胸元を指差す。

『その名帳さ。もっとも私が不愉快なのではなく、縛られた妖魔たちの怨嗟じゃ。式神として契約するならともかく、名を奪っておきながら使役するわけでもなく、かといって解放もせず縛り続けておるわけだからな』

 蛇の生殺しと変わらんと言われ、ずきりと胸が痛んだ。
 夏目には祖母がどんな目的でもってこの友人帳を作ったのか皆目分からないし、想像もつかない。しかし確かに、意味も分からず勝負を仕掛けられ名を奪われた妖からすれば迷惑もいいところだろう。あるいはレイコにはレイコの事情があったにしても、友人帳に名を束ねられた妖にとっては知ったことではない。何故なら―――彼らは純粋対等な友人たりえないから。彼らには彼らのルールがある。あくまでそのルールに則って人間と接する。もちろん中には人懐っこく穏やかな妖もいるが、仲良くなれたと油断していると、不意にどこかで住む世界の違いを思い知らされる瞬間がある。真実心を許すことはなかなか難しい。
 律の妖に対するシビアさが彼の祖父の影響だとすると、飯嶋蝸牛と夏目レイコでは考え方が相容れなかったかもしれない。

「・・・・・・でも、俺はレイコさんとは違うよ。少しずつだけど、妖たちに名を返している。いずれ友人帳からすべての妖を解放するつもりだ」

 言い訳がましく聞こえてもこれだけは譲れないと夏目が視線を逸らせば、青嵐は興味無さそうに鼻を鳴らした。
 夏目は胃の腑がもやもやしているのを感じた。彼にとって妖は恐怖の対象ではあったが、同時に暖かな気持ちにしてくれるモノもいると思っている。きっとそれは勘違いではないと信じているが、たった今、その温い期待に冷や水を被せるような厳然たる現実をつきつけられた思いだった。
 和やかにするつもりが余計に空気が重たくなる。夏目は答えの見えぬ自問を繰り返しながら黙々と歩き続けた。
 その時だった。
 襟首を冷たい手で撫でられたように凍り付いた。冷や汗が伝う。

 ―――いる。

 唾を呑み、そろりと振り返る。延々と続く畳の部屋。そこかしこを襖が仕切っている。
 視界の隅の一か所で何かが動いた。

―――

 乾いた喉に声が張りつく。どくんどくんと心臓が動悸を刻む。
 襖の向こうに足がある。半ズボンを履いた、二つの素足。上半身は影になって見えないのに、鉈を握る右手だけくっきりとしている。そしてもう一方の左手には、何か毛の塊を掴んでいる。
 濡れた毛の塊と、頭を下にした鉈から、赤い雫がポタリと落ちた。
 ぞっと寒気が駆け上がる。
 ―――左手のあれは、人の首だ。
 蒼白いその足がゆっくりと動く。

(こっちへ来る)

 震えそうになる膝を叱咤して夏目は歩を速める。おや、という顔で振り向く青嵐と並んだ。

「おじさん、急いで。あいつが来た!」
「んん?」

 夏目がもどかしくなるくらい青嵐はのんびりと後方を眺める。そうする間にも足はすぐそこまで迫っている。夏目はいてもたってもいられず黒い着物の袖を引きながら強引に走り出した。「おい、引っ張るな」と青嵐が不機嫌そうにがなった。夏目は焦っていた。なまじ人型なものだから、青嵐が妖であり別に足を使って走る必要がないのだということをすっかり忘れていた。
 肩越しに背後を確認する。上体を影に包まれた姿が、凶器を振り上げ音もなく背後から追いかけてくる。おぞましい気配がひたひたと背中に迫った。あれは良くないものだ。とてつもなく。
 前方から目の上に影がかかった。ハッと首を戻した。いつの間にか頭上に鉈の刃が光っていた。

「うわぁ!」

 咄嗟に袖引いていた手を放して横へ転がる。ひゅうと間近で空を切った音に冷や汗が噴き出る。
 慌てて身を起こしそれに距離を取って対峙する。ごくりと息を呑み込んだ。視線を離せばまたどこから出没するか分からない。しかし夏目は丸腰であり、知識もなく、ニャンコ先生ともはぐれてしまった。この窮地を切り抜けるにはどうすればいいのか。
 迫りくる影を持ち前の反射神経で躱した。と、ふと離れたところにいる黒装束の妖が目に入る。死霊が狙うのは生きた人間であり、妖は対象外らしい。細い眼で他人ごとのごとく傍観している姿はとぼけて見える。夏目は命の危機を感じているというのに、あまりにも緊張感がない。

「た、助けてくれないのか」

 薄情さに思わず文句を言えば、青嵐は不思議そうに首を傾げた。

『何故私がお前を助けなきゃいかん』

 あっさりばっさりと一言。夏目は絶望的な気分にかられた。

(そうだ。飯嶋も言っていたじゃないか)

 青嵐はあくまで飯嶋蝸牛の式神であり、亡き主の遺命に従って律を守っているに過ぎない。しかも守るのは命だけで、死なない程度の危険には頓着しない。孫でさえこの扱いなのだから、全く赤の他人の夏目の生死にいたっては言わずもがなだ。
 妖の尺度はなかなかシビアだ。あくまでルール通りに物事を行い、融通を利かせる余地がない。人の価値観での情けなど期待する方が愚かなのだ。

(いや、違う。確かに情深い妖も中にはいる。でもそうじゃない妖の方が彼らにとっては普通なんだ)

 “そうじゃない妖”を動かすには、取り引きと駆け引きが必要になる。追ってくる幽鬼から逃れ、振り下ろされる血の刃をかいくぐりながら夏目はパニックになりそうな頭で必死に考えた。身体には転んだ時や避け損なった時にできた掠り傷で、あちこち血が滲んでいる。
 不意に逃げる足の前を何かが過り、引っかかった。けけ、と嗤うそれは小さな蛇の姿をした妖だった。
 夏目はバランスを崩し、よろめいて前のめりに倒れ込んだ。まずい、と心臓を警鐘が打ち畳の上に這ったまま背後を見上げた。
 すぐそばに死霊の足がある。赤く染まった鉈が目に映った。
 死ぬ―――両腕を交差させて顔を庇い目を瞑る。

「俺が死んだら飯嶋もただじゃすまないぞ!!」

 夏目は咄嗟に叫んでいた。
 刹那、ぐいっと後ろ襟を強く引っ張られ、ぐえっと喉が詰まった。痛みと驚きに目を開けると、畳から足が高く離れている。下の方で死霊が消えた獲物を求めのろのろと身動きしていたが、やがてすうと闇に消えた。
 青嵐が夏目の袖を掴んで宙に浮いていた。間一髪でどうやら助かったらしい。しかし、確か上には天井があってこれほど高く飛ぶ余地はなかったはずだが、どうしたことか頭上は更なる闇に包まれている。空間感覚は完全に狂っていた。

『どういう意味じゃ』

 青嵐が胡乱気にギロリと見下ろした。
 夏目は緊張の反動で肩で息をしながら、自分の思いつきに効果があったことを悟った。

「俺とニャンコ先生は常に繋がってるからな。先生は今飯嶋と一緒にいる。もし俺が見殺しにされたら、先生は怒って報復に飯嶋をどうかするかもしれない。いや、きっとするだろう」

 すべて口から出まかせである。そもそもニャンコ先生と繋がってなどいないし、律と一緒にいる確証はない。何となくそんな気はするが、だからといって夏目が死んでニャンコ先生が律をどうこうするかどうかなど分かりはしない。だがこの扱いにくい妖を動かすには方便を用いるしかないと思った。
 青嵐は探るような猜疑の顔つきであった。あともうひと押しと踏んだ夏目は言った。

「守ってくれるならハーゲンダッツの大カップ1個つける」
『3個じゃ』
「2個。学生なんだぞ、これで限界だ」
『まあいいだろう』

 コロリと態度を変え、青嵐はにんまりした。小遣い的にはかなりきついが、これで命が買えるのなら安いものだと自分を納得させる。

『律と合流するまでは面倒を見てやる』

 うまく取り引きが成立して、ホッと胸を撫で下ろす。その時だった。ビリッと嫌な音がした。あ、と人妖同時に声を漏らす。青嵐が掴んでいた夏目の右袖が縫い目から裂けた。
 身体ががくんと落下する。

「う、わぁあー!」

 叫びながら背中から地上に叩きつけられる。衝撃に火花が散り呼吸が止まった。また死霊が現れるかもしれない、早く起きなければと思うのに、身体が動かなかった。おおい、という呼びかけを遠くに聞きながら、夏目は意識が薄れていくのを感じた。
14.10.30

7BACK      NEXT8