遠くから笑い声が聞こえる。キャッキャッと歓声を上げているのは小さな子どもだろうか。笑い声に唄が混じる。隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼がいるから行かれない・・・・・・懐かしい。花いちもんめだ。小さい頃よく聞いていた。といっても自分は見ていただけだ。仲間に入れてもらえなかったこともあるが、何よりあの遊びは苦手だった。たくさんの中から選んだ一人を攫って行く。皆楽しそうに歌っていたが、その歌詞がどこかうす暗く恐ろしく、何より大抵いつも“違うモノ”が紛れこんでいたから。ずっとずっと大昔に親から捨てられた子どもたちの魂が、一緒に遊んでいることに誰も気づかなかったから。

 夢を見ているのだろうか。暗闇の中、向こうの方だけがぼんやりと明るい。大小の人の影が揺れているが、膜が張ったように輪郭がぼやけていた。まるでスクリーンのないところで古い映写機を回しているかのようだった。
 顔の造作は完全に霞みがかっているが、辛うじて着てる服の様子は判別できる。白っぽいランニングに茶色っぽいぶかぶかの半パン。複数いる影はどれも同じような背格好をしており、元気に走り回っている。やがて影が散り散りになり、一つだけが残る。坊主頭が地面に影を伸ばしどこかへ走っていく。向こうに見えるのは古い木造の家。

(あれ? この家、どこかで)

 ふいに視界が暗転し、再び明かりが点った時には景色が変わっていた。まさに映画のシーンの切り替わりのように。
 暗い畳の部屋に蒲団が敷かれており、蚊帳の中で子どもが寝がえりを打つ。襖の向こうから漏れる白熱電球の灯りの下では、俯き気味に手作業する女性。不意にその顔が上がった。過ったのは男の影。振り上げられる腕。そこに閃く光。そして―――再び暗幕。

 お父さん、と幼い子どもの声がした。今度は背後がぼんやり明かるくなる。振り返ると、キャッチボールをして楽しむ親子の影絵。父親がボールを投げると、男の子が走ってグローブでキャッチし、投げ返す。そして父親は再び腕を振りかぶる。
 しかしその手に握られていたのはボールではなかった。次の瞬間、自分の視点は男の子と重なっていた。茫然と見上げる先から、鉈が振り下ろされる。
 思わず目を瞑った。
 ―――ずしりと胸が圧迫された。苦しい。金縛りか。重い、どけ先生。

『死にたくなければ起きろ』

 寝ぼけた鼓膜をはっきり打った声に、夏目はパチッと瞼を開けた。

「あれ・・・・・・?」

 間抜けな声が出た。己の上にまるでベンチのごとく腰かけ、上から睥睨する見慣れぬ長髪の妖怪。夏目の意識が戻ったと分かるや、胡坐をかいて乗っていた胸の上から重力無視の身軽さでヒラリと飛んだ。

『危なかったな』

 残念無念とばかりにニヤリと意味深に笑う細目にようやく記憶が巡る。

「俺、今何が」

 ぐらぐらする頭に手を当てながら何とか起き上がる。

『頭から落ちたんじゃ』

 そういえば。

「って、そうじゃなく」
『意識を失った一瞬にそこにいた魑魅(すだま)が身体に入り込んだ』
「そう・・・・・・え?」

 頬が引きつった。顔を上げる。

「魑魅って・・・・・・人の霊?」
『他にあるか? まあ残留思念と言った方が近いがな』

 さも煩わしげな顔をされる。ついでに救いようのない奴と言わんばかりに鼻を鳴らされた。思いやりが感じられない。同じ妖怪でもニャンコ先生の方がまだ優しい。妖は概ね気紛れだと思うが、青嵐は輪をかけて偏屈というか、掴み辛い。
 そんなことを思っていると、額に指先が突きつけられた。

『生来霊力の強い人間は妖魔にとっても魑魅にとっても垂涎の器だ。ついでに感受性があるだけに共鳴もしやすい。大方、そ奴の記憶に引きずられたのだろう。私が玉の緒を押さえておらねば、そのまま魂ごと連れて行かれるところだったぞ』

 夏目は背筋が冷たくなった。言われて初めて自分の身に起きていた危機的状況を認識する。

「助けてくれたのか」
『アイスをまだもらっておらんからな』
「そ、そうだな。とりあえずありがとう」

 先ほどの取引は効いているらしい。ハーゲンダッツ(大)二個分の命か。ずいぶんと軽い命だが、学生の財布的にはまずまずと言えるだろう。こういうのを費用対効果(コスパ)というのだっけ。ひとまず礼を言っておいた。
 それに、おかげでこの西山家に巣食う闇の正体が分かった。怪我の功名だな、と歩きながら後頭部のタンコブを摩る。

(飯嶋とニャンコ先生は無事だろうか)

 危険な目に遭ってはいないといいが。そう思ったところで夢の像が脳裏にフラッシュバックし、身が竦んだ。
 これまでにも危ない出来事は散々経験してきた。しかし今回のようなケースは初めてだ。身体を乗っ取られていた間に見せられた恐怖の記憶。目の前で振り下ろされる重たく冷たい凶器。
 あんなもので切られたら、どれほど痛いだろう。考えるだけで膝が震える。
 後ろからついてくる青嵐とて、今でこそ餌で釣られているが、妖ゆえにいつ気が変わるか分かったものではない。早いところニャンコ先生と合流した方がよさそうだ。それに律に、自分が見た夢のことを話さないと。問題解決に役に立つかは分からないが、夏目だけでは知ってても何もできそうにないし、家鳴りの言ではないが、二人知恵を合わせれば何とかなるかもしれない。
 しかしそれにしたってこの暗闇である。もはや元の家の面影(かげ)原形(かたち)もありはしない。一体どこにどこまで繋がっているのか。解決どころか、このまま迷い込んで一生出られないことになるのではないかと危ぶんでしまう。

『おっと、そういえば』

 先ほどの悪霊がいつ現れるかと不安で内心ひやひやしながら進んでいたところで、唐突に背後で青嵐が能天気そのものの独り言を発した。口から心臓が飛び出そうになる。
 ドキドキしながら「なんですか」と振り返ると、青嵐は鼻歌交じりに袷の内側から棒付きの何かを取り出すところだった。

『そうじゃったそうじゃった、これがあった』

 テヘペロとでもやりそうなノリで楽しげに手にしたそれを両手で開く。アコーディオンのようにポポポンと広がったのは、提灯。それも―――

「『も』?」

 でかでかと「も」の字が毛筆で書かれている。
 青嵐はエイッとこれまた語尾に星がつきそうな勢いで魔法使いばりに指一本で火を灯す。真面目なんだかふざけているのだかよくわからない妖怪だ。
 半ば胡乱の目で窺っていた夏目だが、火の入った丸も提灯が掲げられるや、暗闇しかなかったところに不意に道が浮かび上がり、大きく目を開いた。青嵐が得意げに鼻を鳴らした。

『ふふん、このもののけ提灯はもののけ道を迷わず歩くための秘密アイテムよ』

 秘密アイテムとか言う妖怪ってどうなのだろうかと意識の片隅で思いつつ、つい叫ぶ。

「そんな便利なものあるなら、最初から出せよ!!」
『忘れておった』

 それが何か?とばかりにしれっと首を傾げる。いちいち人を小馬鹿にして癇に障る妖怪である。

『どうやら借りパクしていたらしい』
「借りパクとか言う妖って・・・・・・」

 ニャンコ先生も妖怪のくせに妙に人間臭いが、青嵐は人間というより人世に馴染みすぎなのではないだろうか。それとも人間の身体で生活しているとそういう風になってしまうものなのか。  脱力する夏目を余所に、青嵐は依然マイペースにさっさと先を行く。色々聞きたいことが喉につかえているが、夏目はひとまず大人しく提灯の明かりについて歩いた。




『そもそもからして霊力の高い人間と言うやつはとかく厄介に巻き込まれやすい』
「はあ」
『夏目もお前もそこんところもう少し危機感を持ってだな』
「ゼイ」
『こら、聞いているのか』
「聞いて・・・・・・られるか!」

 肩から振り落とされたニャンコ先生が闇を転がる。丸い形なだけに面白いくらいコロンコロン回ってくれる。

『何をする!』

 飛び上がってぷんすか怒りを示す猫に、律はゼイハアと息をしながら睨み返した。

「重い。ていうか重い! 子泣き爺じゃあるまいし、何で僕がお前を担いで歩かないといけないんだ」
『仕方なかろう。猫は視界が低くて狭い。先が見え辛いゆえ高いところへ上らねば』

 後ろ立ちで腰に手を当ててみせる妖怪変化の科白と思えない。

「僕は物見台か」

 がっくりと項垂れながらすっかり凝り固まった肩を揉む。そこでピンと思いいたった。

「そうだよ、物の怪なんだからもののけ提灯くらい持ってないのか」
『もののけ提灯だと。あんなレアグッズ、私の方が欲しいくらいだ』
(あれってレアなんだ・・・・・・)

 まさか自称家来の烏天狗二羽が持っているとは今更言い難い。尾白尾黒が当たり前のように常用しているので気づかなかったが、そう言われると確かに彼ら以外であの提灯を持ち歩いている妖魔をあまり見ない。

『まあともかく歩き続けることだ。この闇はもののけ道に近いとはいえ外界には通じていない、あくまであの家の中の閉ざされた空間だ。となれば、いずれどこかに辿りつくか、向こうからちょっかいをかけてくるだろう』

 ニャンコ先生の講釈は至極もっともなのだが、しかしこうも当てもなく歩き続けていると流石に体力も萎えてくる。

「逆にじっとしていた方がいいんじゃないかな。ほら、はぐれたり迷ったりした時はその場を動かないって言うじゃん」
『動かねば何も始まらないぞ。ローマの道も一歩から』
「ことわざ先生か」

 すっかり漫才と化した会話に余計に気力を殺がれる。

『ドラ先生と呼んでくれてもよいのだぞ』

 ふんぞり返って偉そうに言うニャンコ先生の最近のお気に入り番組は青い猫型ロボットの国民的アニメらしい。そういえば青嵐もまだ言葉を練習中の頃、小学校低学年の律の隣であのアニメを見てあれは何だと煩く訊いてきたり、おいしそうに食べられているどら焼きに涎を垂らしたりしていたものだ。

「どこでもドアを出してくれたらね」

 面白くない冗談を自分で言って更に打ちのめされつつ、再び重い足を動かす。

『とーこーろーでーなーんーだーが〜』

 がくりと膝から力が抜けた。勿体ぶった間延び調子の上に無駄にだみ声。しかも使いどころが違う。
 嫌がらせなのか天然なのか、どこまでもネタを引きずるニャンコ先生に関西の生まれかと疑いを持ちつつ、先を促す。

『あのナマズもどき、お前の式ではなかろう』

 一転して急に真面目な口調で言うものだから一瞬反応が遅れた。
 ナマズ、と呟いてから、青嵐のことと思い至る。どうもあちらから猫もどきと言われたことを根に持っているらしい。おや、犬もどきだったか?

「そうだよ。何で?」

 夏目には話していたが、あの時後ろで青嵐と言い争いをしていたニャンコ先生は聞いていなかったようだ。

『そこそこ古い妖のようだからな。お前のような半人前が式に下せるとは思えん』

 指摘がズバリグサリと突き刺さるが、事実なので認めるしかない。

「青嵐はお祖父ちゃんの式神だよ」
『蝸牛はとっくに死んだのだろう。何故まだ留まっているのだ』
「お祖父ちゃんの遺言で僕の護法神になっているから」

 祖父は青嵐以外にも式神をいくつか抱えていたが、終活を怠らず、自分の死と同時にすべて“身辺整理”した。式神は主人が死ねば契約が切れ、自由の身となる。そうなるとそれまで命令され抑えつけられてきた積年の恨みを晴らすべく人間に仇なす存在になる。
 そのため、残される家族やその周りの人々に危険が及ばぬよう、飯嶋伶は当時娘婿の身体に棲みついていた最も古参で最も強力な青嵐だけを見逃す代わりに、すべての式神を彼に食わせたのだ。

『ふん、人間がそんな芸当ができるなら、レイコのやつにもできたのかもな』

 ぽてぽてと横を通り過ぎたニャンコ先生の独り言めいたぼやきに、律は口を噤んだ。
 そういえば夏目の祖母レイコもまた妖と常日頃関わっていたというが、彼女とニャンコ先生は一体どんな関係なのだろうか。飯嶋伶と青嵐の関係とは異なるだろう。見たところニャンコ先生は人間に使役される式神ではない。

「夏目が言ってた友人帳って、そのレイコさん―――夏目のお祖母さんが作ったんだよね。一体何のために?」
『そんなこと知るか。というかこっちの方が知りたいくらいだ。まあ、あいつはよく分からん女だったからな。人間の友人もいなさそうであったし。大方、腕試しのつもりだったのだろうが』

 ふうんと相槌を打ちながら、

「一体何を“確かめ”ようとしていたんだろう」

 無意識に独り語ちた。

『何だって?』

 ニャンコ先生が耳を動かす。律は慌てて何でもないと答えた。
 祖父があれほど怪しい本に手を出しては術の実験を繰り返していたのは、自分の能力を“試す”のではなく、“確かめる”ためだったのではないかと律は思う。両者は似て非なる行為だ。限界を探るという意味では同じだが目的が違う。“試す”のは挑戦と好奇心によるもので、“確かめる”のは慎重と危機感によるものだ。自分の力が及ぶ範囲はどこまでなのか、どこから先には手を出せないのか。人の身で負えるもの、負えないもの。あちらとこちらの棲み分けを明確に線引きして、本当に危険なものには決して近づかぬようにした。自ら危ない石の橋を叩いて渡ることで、経験則と対処法を体得したのだ。たとえそれで寿命を削ることになろうとも。

 しかし同時に、手に負えなくなって裏の雑木林に封印した“失敗”のツケをも払う羽目になった。その因果から従姉の司は長い間憑きものに苦しみ、そして律の本当の父親もあっけなく命を奪われたのだ。
 それでも祖父は単なる冒険心からそうした実験を―――たとえば妖を支配したくてコントロールを試みたわけではないと思っている。誰よりも妖怪の不可侵さを理解していた祖父。その小説からは、彼らに対し淡々と一線を引きながら、憧憬にも似た親しみが感じられた。
 あるいは、常人の生活とは縁遠いゆえに人間社会に対して疎外感のようなものがあったのかもしれない。だから人間の味方たる祓い屋となって妖魔を駆逐するよりも、互いに分を守りながら共存することを第一とした。時に頓知を利用して巧みに渡り合う手並みはまさに昔話を見ている気分だった。

 夏目の祖母がもし純粋に潜在力を試すためだけに妖魔と勝負をしたのだとすれば、祖父とは対照的だ。しかしレイコという女性が本当に道場破り感覚で妖魔の名を奪ってきたのか、実際のところは分からない。人とは異なるモノを視てしまう見鬼は、往々にして人間社会から排斥され、かといって妖にもなれない半端者。誰からも理解されない孤独の中で、我が身を守るための虚勢を張りながら、何かを確かめようとしていたのではないか―――

『確かめる、か。ふむ。新しい見解だな』

 誤魔化したつもりだが、しっかり聞こえていたらしい。

『成程、そういうこともあるのやもしれん』

 一瞬、猫の姿に大きな獣の影が陽炎のように重なり揺らめいた。

『人間とは面倒な生き物だな。我らとは違うしがらみの中で生きているからか。それにすぐに死んでしまう。あれほど我らを震撼させたレイコでさえも』

 人間とは別の時空に生き、時に人間を害する存在でありながら、不思議にも妖魔には人間との交流を好む節がある。だから彼らは自分たちに気づかぬ人間に悪戯をして存在を主張し、また自分たちのことが見える人間を見つけると大喜びでちょっかいをかけてくるのだ。もちろん単なる御馳走にしか見えていない輩もいるだろうが、一部の妖魔にとってそうした人間は貴重な存在なのだろう。

「短い命だからこその強さなのかもね。均衡を崩さないための理なんだよ、きっと」

 どちらが主でもどちらが従でもない。お互いに同じだけの利害と影響を与え合いながら並存している。

「とはいえ、僕にはお祖父ちゃんのような強さはないけど。多分夏目も一緒なんじゃないかな。ほら」

 律は前方を指差す。遠くの方から明かりが揺れながら近づいてくる。律はニャンコ先生を見下ろしながら笑った。

「結局、家鳴りが言ったことは当たっていたんだろう。僕らは単独では頼りにならないけど、二人いれば何とかなりそうだ」

 おおい、と明かりの方から馴染みの声が聞こえてくる。提灯を片手に駆け寄ってくる影は、離れ離れになった片割れ同士であった。
16.4.14

7BACK      NEXT8