庭に下りると、じわっと肌を圧する熱気に迎えられた。いつもなら煩わしいばかりのそれさえも、今の彼らには嬉しい現実世界の感覚だ。 見やると日はまだ空の高くにあった。かなり長い時間を過ごしたように思っていたが、実際はどうやらほんの一時のことであったらしい。妖の空間は人間の世界とは時の流れが異なるから、こういうこともあるのだろう。世間で行方不明になっていると思われていたらどうしようと心配していた夏目はひとまず胸を撫で下ろした。 背後を振り返ると、そこには入る前と同じように家があり、ガラス戸が開いている。隙間から零れてくる気配は、最初に訪れた時よりも悪い感じが薄れていた。それでも薄気味悪い寒々した冷気は暗い屋内に依然として凝っており、二度と入りたいとは思わない。 庭といえど家の敷地内にいるのは落ち着かず、そそくさと垣根から道路に出て、ようやく人心地つく。 夏目は改めて大きく息を吸った。帰ってきた、と確信した。 「ああ、やっと出られた」 隣でごちた律を窺うと、同じように深呼吸していた。 似た背景を持つ見ず知らずの二人が、妖怪に見込まれて呪われた家に閉じ込められ、悪霊に殺されそうにながら、何とかその霊魂を封じ込めてここにいる。 考えれば何やら可笑しくなり、また命拾いした安堵感から、夏目は思わずクスクスと声に出して笑ってしまった。早くも暑さに汗を浮かべる律が不思議そうに見てくる。 「いや、なんか不思議な感じがしてさ。奇妙だ縁だなって」 それで律も表情を緩め、「まあ、そうだね」と言葉少なながら感慨の籠った口ぶりで相槌を打った。 だが完全に解決したかというとそうでもない。律の手の中には例の壺がまだあった。 『おい小僧、それはどうする気だ』 ニャンコ先生が後ろ立ちになりながら短い前足で差す。律も自分の腕の壺へ視線を落とした。 「このままにもしておけないし、近所に信頼できるお寺があるからそこへ持っていって供養してもらうよ」 青嵐がああ、あの坊主かと、とても聖職とは思えない俗物の住職を思い浮かべる。強かだが霊力と腕は確かなだけあり、あの寺には曰くつき恐るべき品々が持ちこまれて保管されている。 きっと嫌がられるだろうなと心の中で思いつつも問答無用で押し付ける心算の律である。あの寺の曰く物にはこれまでも迷惑をかけられたことがあるからお互い様だ。第一、祖父ならいざ知らず、律が持っていたところで第二の西山家ができるだけである。 それにしても、と不意に夏目は眉間を曇らせた。 「分からないことがあるんだけど」 「何が?」 「ずっと封印されてきたのに、一体どうして飯嶋のお祖父さんの封印が破れたんだろう。まさか老朽化ってことはないだろ」 律は黙り込む。そのことはもちろん考えていた。どことない既視感。 (もしかして・・・・・・いや、まさかね) と内心で思いめぐらした瞬間――― 「あーあ、つまらないなぁ。余計な邪魔が入ってしまった」 唐突に傍らの塀の上から落ちて来た男の声に律と夏目は揃ってビクッと肩を竦めた。 『なんじゃ貴様』 ニャンコ先生が毛を逆立てて威嚇する。 四対の視線が向けられた先にいたのは、全身黒い服に身を包んだ見るからに怪しい人物だった。塀の上に片足を組んだ格好で腰かけ、頬杖をついて、見た目はにこやかにこちらを見下ろしている。燃えるような赤毛が印象的だった。 (人間―――じゃない) ただ座って笑っているだけなのに、夏目はぞっと身体中が総毛立った。暑気にも関わらず背に冷や汗をかく。あまり人に上手く化けている妖だと、夏目には生きている人間との区別がつかない。しかし“それ”は、そんな夏目にも一目で人間ではないと分かるほど、はっきりと恐ろしい妖気を纏っていた。強い妖であれば斑や青嵐だってそうだが、塀の上の妖から感じるものはもっと邪悪で、本能的な恐怖を煽るものだった。 「出おったな」 青嵐が忌々しげに顔を歪ませる。ニャンコ先生が誰何した。 『何者じゃ』 「お前こそ何者だ? 招き猫の分際で礼儀のなってない奴だな」 赤毛はニヤニヤと笑って言い返す。安い挑発に簡単に乗せられるニャンコ先生はいきり立った。しかし仮にも大妖怪、もちろん相手がどれほどの物かも察している。 「もしかしてと思ったけど、封印を解いたのはお前か、鬼灯」 律がこの上なく嫌そうな顔で塀を窺う。夏目はその妖怪が鬼灯という名なのだと知った。だが鬼灯は名を知られているのに縛られていない。真の名ではないのだろうか。 鬼灯はふわりと裾を閃かせて宙に浮いた。 「何、俺はこの家の住人にちょいと囁いてやっただけさ。でも折角お前と遊ぼうと思ってとっておきを用意したのに、助っ人なんて と揶揄なのか分からない口ぶりで哂う。間違いなく邪悪な妖怪なのに、無邪気で残酷な子どもを彷彿とさせた。 「でもまあ、また面白いものも見れたしいいか。伶の血筋以外にも似たような人間がいるらしい」 ふわふわ揺れる髪の狭間に大小の目玉が見え隠れする。そのうちの一つがきょろりと夏目とニャンコ先生を見、二人はぎょっと身を引いた。 「まあ、いつもみたいな力技じゃなくてちゃんと正解ルートでクリアしたから今回は大目に見てやるよ」 「次回なんてない。ていうか何度も言うけど僕はお祖父ちゃんじゃないんだ、いい加減お前の相手なんてしてられるか」 「そういうなよ。じゃあまたな」 「二度と来るな!」 「私もまたこんな面倒はごめんだ」 まさに親しい友人と別れるように気さくな調子で別れを告げた鬼灯に、律と青嵐は口を合わせて拒絶を叫んだが、本人は聞こえないとばかりにひらひら手を振り中空に解けるように消えていった。 呆気にとられ結局一言も発せられなかった夏目は、ようやくそこで詰めていた息を肺から出し、律に同情の眼差しを送った。 「何だか、色々と大変だな・・・・・・」 「そうなんだよ・・・・・・」 がっくりと項垂れる律の足許に怒り心頭なニャンコ先生が詰めよる。 『なんじゃあの無礼な奴めは! お前の知り合いか!』 「僕というよりお祖父ちゃんの」 「蝸牛のストーカーじゃ」 身も蓋もない紹介である。本人は「友人」と自称しているが、まあ実態は青嵐の表現も間違いではいない。 夏目の中での飯嶋の祖父に関する謎はますます深まるばかりである。ただ分かるのは鬼灯が単なる妖ではないこと。あれは下手をすればニャンコ先生や青嵐よりも長い時を経た古妖だと、ニャンコ先生がさっき小声で零していた。そんな大物に友人と目され纏わりつかれていたとは、さぞ苦労したことだろう。 「何かよく分からないけど、厄介なのに目をつけられているんだな」 レイコのために似たような経験をしている夏目としては我がことのように気の毒でならない。 「結局うちのせいで関係のない夏目まで巻き込んでしまったみたいだ。ごめん」 「気にするなよ。飯嶋の責任じゃない。・・・・・・多分、俺たちはこういう星の下に生まれたんだ」 仕方ない、と夏目は力なく笑う。 妖怪が見える力を、彼らと渡り合う力を持って生れてしまった以上、彼らと縁を切ることはできないのだ。夏目も律も、そして他の霊能者たちも、きっと何らかの形で彼らに翻弄され、否応なく巻き込まれている。人間側からすれば迷惑なことこの上ないが、妖怪たちにしてみれば、無邪気に人間と遊んでいるだけなのかもしれない。そう、あの鬼灯のように。 「何はともあれ、夏目のおかげで何とか無事生きて戻ることができたよ。ありがとう」 「こちらこそ、俺一人じゃ今頃どうなっていたか分からない。ありがとう」 二人は改めて顔を見合わせた。不思議な縁。引き寄せられた奇遇。恐らく忘れることはないだろう。 「あっ」 青嵐の眼鏡の奥の物言いたげな目つきに気づき、夏目はハッとして鞄を探った。財布から千円と五百円を取り出し律の手に押し付ける。 「あとこれ―――あお・・・・・お父さんに、ハーゲンダッツの大きいの、二つ買ってあげてくれ」 つい名前を言いかけ、慌てて変える。不用意に妖の名を口にすべきではない。 「えっ?」 「助けてもらったからお礼に」 まさか取引ともいえず誤魔化すが、さすがに律は察したらしく青嵐を半眼で睨んだ。 「あいつ・・・・・・本当にごめん」 「いや、これくらいで済むならいい方なんだろう、きっと」 『おい、儂への礼は!?』 ニャンコ先生が飛び跳ねて抗議したが夏目は一瞥もしないままゲンコで黙らせた。 ふと遠くから若~若~と呼ぶ声がした。律の背後から黒白の小鳥らしきものが二羽こちらに一生懸命飛んできている。 「あれ、お迎え?」 指差すと、律も肩越しに振り向いて「あっ」と言う。そういえば西山家の中で試しに呼んでみていたのだ。しかし空間が歪められていたために今の今まで居場所が特定できなかったのだろう。 『くそう、帰るぞ夏目!』 「え? あ、先生!」 返礼を貰えなかったことが不満らしいニャンコ先生が急に憤激して叫んだかと思うと、白い大犬となり夏目を咥えて背に抛り投げた。ぼす、と柔らかい毛の海に落ちる。 「ちょ、ちょっとタンマ、先生!」 もがきながら身を起こし、高い場所から夏目は律と青嵐を見下ろした。追いついた小鳥たちが斑の姿に驚き戦きワァと飛び逃げる。 「飯嶋! 俺、世分高校ってとこに通ってるんだ。もし何か困ったことがあったら―――」 夏目は言いかけて、悩んだ。連絡してくれ? それも何だか変な気もする。 すると律は分かったという風に微笑み、 「夏目も元気で。また東京に来ることがあったら遊びにおいでよ。この辺で飯嶋と言ったら大体分かるから。うちは母も伯父叔母も従姉までみんな祖父のおかげでちょっと変わってて」 近所でも評判のお化け屋敷なんだ、と自嘲とも思える一言を添えて、手を振る。夏目も笑って振り返した。 『行くぞ!』 ゴォッと風が唸る。毛並みを日差しに煌めかせ、斑は飛び立った。 砂埃から目を守った一瞬のうちに、夏目と妖獣の姿は見えなくなった。律は消えた姿の残像を追い、しばらくその場に佇んで遥か彼方を仰いでいた。何だか夢を見ていた気分である。自分と同じような境遇の人間と、今の今まで妖相手に共闘していたなんて信じられなかった。 夏目と知り合い、色々考えさせられたこともある。律には真似できそうにもないが、積極的に妖と関わる夏目の強さが少しだけ羨ましい。 それに夏目の用心棒だというニャンコ先生もなかなかどうして謎めいている。律と青嵐とは異なる関係。以前ある古い妖怪が青嵐を見て「今時、人間と契約する妖がまだいるとは珍しい」というようなことを言っていた。だがニャンコ先生は夏目と契約しているわけではなく、己の意思で夏目を護っていた。物の怪というよりまるで犬神大口真神のように神々しく雄々しい姿を思い返す。人間臭いかの妖は、何を思って人間を護るのだろう。 恐る恐る戻ってきた尾白と尾黒がピヨピヨとしきりに囀る。 『若、今のは何でございますか?』 『随分大きな妖怪でしたな! よく青嵐殿が食いつかなかったものです』 「フン、あんな胸糞悪いモン食ったら腹下すわ」 青嵐は興味無さ気に鼻を鳴らし踵を返した。 「帰るぞ律! アイスだアイス、忘れるなよ」 「はいはい」 律も苦笑しながら後に続く。一度だけ塀越しに西山家を見た。そこは最初に見た西山家と似ているようで全く異なる趣の家がある。この家ではきっと二度と悲劇は起きないだろう。残ったのはやたら煩い家鳴りだけ。 そういえば、本当の西山さんへの桃は結局中に置いてきてしまった。後日バレたら祖母八重子から小言を喰らうかもしれないが、まあいいだろう。飯嶋家にとって説明のつかない怪奇現象は日常茶飯事だ。霊感のない八重子さえそれに慣れっこで、周辺で起きる不思議もあっさり受け入れている。そうでもなければ妖怪人間と結婚生活など送れまい。祖父を選んだ祖母を律は心から尊敬している。ともすれば妖魔の世界に踏み込んで戻ってこれなくなったであろう飯嶋伶を人間に留めたのは祖母の存在だろう。人ならざるモノを視てしまう者でも、全くの孤独というわけではない。理解し受け入れてくれる人はいるのだ。 歩きながら、もう一度だけ空を見上げる。 ―――もしまた会うことがあれば。 風のなか滑空する斑の背で、夏目は今しがた別れた二人の姿を記憶の中で繰り返し思い返す。 「なあ、先生」 『なんだ』 「世の中、色んな人間がいて、色んな妖がいるんだな」 『何を今更』 分かり切ったことをと醒めた反応に夏目は唇を上げる。確かに当たり前のことなのだろうが、今回ほどそれを実感したことはない。 「いや、飯嶋と飯嶋のお父さん見ていてさ、改めて思ったんだ」 律は祓い屋ではない。妖を否定せず、かといって肩入れすることもない。その一方で妖を父と呼び、自身も式らしき小さな妖を持っている。夏目にとっては初めてのタイプの霊能者だった。憶病なんだよ、と言った言葉が印象的だった。 (飯嶋って、不思議な一族なんだな) 時間があり落ち着いた状況であったらもっと色々と話をしてみたかった。 「そういえば珍しく先生が捕食対象にしていなかったくらいだから、飯嶋のお父さんも本当に強い妖なんだな」 瞼を閉じれば鮮明に浮かび上がる。眼裏に焼きついているのは、幾度となく危難に光を放ち風を纏って顕れた姿。怖かったけど、ちょっと綺麗だったな、と眼を閉じながら素直に思う。妖怪というよりまさに伝説上の神獣そのままの本性は荘厳で、初めて斑を見たときと同じく、畏怖を覚えるかたわら思わず魅入ってしまった。 『別に、食指が動かなかったのは食ったところで腹が膨れなそうだったからだ。あ奴本来は無形のものだ。龍形は後付けだな。大方蝸牛が与えたものだろう』 「へえ、そうなんだ」 人が形なき妖に形を与える。そういうこともあるのだと感心した。気高く、美しく、自由で、力強く―――飯嶋伶はどんな思いを込めて青嵐に龍の姿を与えたのだろう。そこには強い願いが籠められているように夏目には感じられた。青嵐には主人である飯嶋伶に対し深い思い入れがあるようだったから、きっと単なる主従契約抜きに強い絆で結ばれていたのだろう。 (レイコさんには、妖とそういう関係を築くことはなかったのだろうか。名を奪い続けるだけだったのか・・・・・・) ふとそんなことに思いを馳せる。 『そういえば夏目、財布忘れたとか言っていたが、結局最初から鞄に入っていたんじゃないか』 「あ!」 今更夏目はそこに思い至る。元はと言えば財布を忘れて取りに戻ろうとしたことから始まったのだ。 「く・・・・・・確かにあの時はいくら探してもなかったはずなのに」 つまりはそこから家鳴りの罠に嵌められていたのだ。くそ、やられた。 『次からはおかしなモノに目をつけられぬよう気をつけろ。あの小僧みたいになりたくないのならばな』 祖父孫でストーカー妖怪に纏わりつかれる憐れな律を思い出し、夏目は引きつった笑いを浮かべ肝に銘じた。 ふと眼下に川が見えてくる。そこに川遊びを楽しむ見慣れた二人。 斑に彼らから見えない側に下ろしてくれるよう頼み、夏目は来たし方を振り返った。 ―――いずれ、また。 |