それは偶然だったのか、必然だったのか。
 一時間目と2時間目の間の十分休み。僕が吹き放しの渡り廊下を歩いていたときだった。
 A棟とB棟にはさまれた空間、つまり中庭に吉田がいた。

(歌……?)

 歌が聞こえる。
 吉田が歌っているようだ。
 普通なら笑う所である。中庭で一人、しかも妙な転入生が、歌を歌っている。
 これほど奇妙でおかしなことはない、筈だ。しかしそんな奇行に対する疑問など即座に吹き飛ばすほど、吉田の歌声が耳に流れ込んできた。抑えようもなく、どうしようもなく。まるで洪水のように鼓膜に押し寄せて心臓へ到る。
 不思議な旋律と知らない国の言葉。
 低く高く、強く弱く、その透明な歌声は空気に吸い込まれていく。
 どこかの民族音楽のような、不思議な響きを持った歌である。
 いつの間にか僕の身体はその歌に誘われるかのようにふらふらっと転校生の方へ近づいて行っていた。
 丁度その時、A棟校舎の角から数人の生徒が歩いてきた。クラス章から、彼らが同じ3年生と分かる。
 しかしそんなところ見ずとも、あの顔ぶれを見ればこの学校内の生徒なら誰もが知っている。彼らは悪名高い不良集団として有名だからだ。

(ヤバイ)

 いざなう旋律を破って警鐘が鳴った。
 だがまだここへ来て日も浅い転校生は知らないだろう。
 転校生の歌が止まる。

(どうしよう……)

 早く先生に知らせようと思うのに、何故かそこから動けない。
 僕のいるところは集団からは死角となる位置なので向こうは僕に気づかないようだ。
 集団はにやにやしながら吉田を囲むようにして近づいた。

「んだぁ? 変な歌が聞こえると思ってきてみりゃあ」
「お前、こんなとこで何してんの」
「……」

 吉田は何も答えない。

「お、生意気にもシカトする気だぜコイツ」
「俺達みたいなのとは口も聞きたくないってのかよ。どこのおエライサマだ?」

 やはり吉田は何も言おうとしない。
 それどころか彼の目はもっと別のところを見ているようでもあった。

「何スカしてんだよ、あぁ? なんか言えってんだ、コラ!」
「そうか思い出したぜ。コイツ、A組みんとこの転校生だよ」
「ほー。そんじゃ俺達の事も知ねーってことか。そんなら人に対する態度ってもんをきっちり教え込まんとな」

 集団の中で一番屈強そうなのが言った。
 その瞬間僕は彼らに向かって走っていた。

「待ってください!」

 彼らの間に割り込み、転校生の前に立ってかばう。
 吉田は驚いたように目を見開いた。

「邪魔をするな」

 吉田がはじめて言葉を発した。
 心なしか少し焦っているように聞こえる。

「なにが邪魔するな、だよ。このまんまじゃ……」
「なんだぁ、お前!」

 気色ばんだ少年が手を振りかぶった。

(やられる!)

僕はとっさに目をつぶった。

「ぐあっ」

 予想していた痛みはなく、代わりにいきなり目の前の少年が腕を抑えてうずくまった。
 一瞬何が起こったのかわからなかった。

「どうしたんだっ」
「うぅっ……わ、わかんねえ、いきなり腕が……」

 抑えた手の指の間から赤い液体が流れ出す。
 僕には何がなんだかさっぱり理解できない。
 もちろん僕は何もしてはいない。
 殴られると思って、目をつぶって、そしたら突然……
 どうしていいか分からず、おろおろして辺りに目を回し、ふと見上げると、前方の校舎の3階の窓からあのB組の転校生がこちらを見ているのが見えた。
 ――スッと背筋が寒くなる。
 差し込む日に一瞬、彼の目が金色に閃いて見えた。

「おい、てめぇ……一体何をしやがった」
「こいつ、ただじゃおかねえ」

 その声に慌てて視線を戻すと、みんな同い年とは到底思えないほど凶悪な形相をしていた。
 どうやら僕らが何かしたと思っているらしい。
 全員がゆっくり詰め寄ってくる。
 僕はそれに合わせてじりじりと少しずつ後退する。
 中のひとりがこちらに手を伸ばそうとしたとき――…

「おい! そこでなにをしている!」

 突然怒鳴り声が響き渡った。
 気づくと、先ほどまで僕がいた渡り廊下に先生が立っている。

「おい、やべえ……っ」
「先公だぜっ 逃げろ!」

 不良集団は一目散に逃げ出した。

「待ちなさい! お前達!」

 先生がこちらに向かって駆け寄ってくる。
 僕はもう一度校舎の窓を見上げたが、B組の転校生は既にそこにはいなかった。
 走ってきた先生が僕らの方へ向き直り、

「君、何かされたかね」
「は……」
「いえ別に何もありませんでした」

 はい、といおうとした僕をさえぎって吉田が言った。

「本当かね? 彼らはこの学校一の問題児連中だ。何もなかったとは思えんのだが…脅されているのではないか?」
「いえ、本当に。何かされる前に先生が来て下さったので。助かりました」

 なんかちっとも感謝しているように聞こえないのは僕の気のせいだろうか…。

「あ……ああ、そうか。それならいいんだが」
「それでは」

 そう言うと吉田はさっさと先生に背を向け、校舎のほうへ歩いて行こうとした。
 僕が、先生にさっきのことを言うか言わないか迷ってその場に残っていると、

「行こう」

 吉田が僕の方を向いて小声で囁いた。

「う、うん」

 まだ納得がいかなかったが、吉田の瞳が「話すな」と訴えていたのでおとなしくついていった。
 後ろを振り向くと、そこには怪訝そうな顔をして僕らを見送っている先生がいた。




 吉田と別れた後、僕は自分のクラスに戻りながらついさっきの吉田との会話を思い出していた。

『いいか。さっきのことは誰にも話すなよ』

 辺りを憚るかのような小声で言った。

『何でだよ。僕達は被害者だよ? もしあの時運良く先生が来なかったら僕達は今ごろ病院のベッドの上だったかもしれないんだぞ』
『たとえ教師に言ったところでどうにもならない』

 先生、ではなく教師と言ったその物言いがひどく淡白で余所余所しく、僕は奇妙な違和感を覚える。

『何でそんなの分かるんだよ』
『わかるさ。あの連中を見てたらね。ああいうタイプはどんなに説教をしても自分の行動を改める気なんかありはしない。教師だって相手が生徒だから下手に手を出せないだろう』
『だ、だからって』
『とにかくこのことは一切他言無用だ。――…これは君のためでもある』
『え? それってどういう……』

 誰か人がやってくる気配を感じたのか、吉田ははっとしたように後ろを振り返ると、顔を戻し、

『わかったな』

 一方的に会話を切り、それ以上は無駄とばかりに一言も話さなかった。
 二人の女の子が何かを話し合い笑いながら横を通り過ぎていった。
 そちらに少しの間気をとられて、目線を戻したときには、吉田の姿は何処にも見当たらなかった。

(彼は一体何を知られたくないんだろう……)

 吉田のあの態度は明らかに何かを隠そうとするものだ。
 ……そう、人に知られたくない『何か』を。
07.09.27

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