七.


「やめろ!」

 凛とした声が闇を貫くと同時に、突如として閃光が放たれる。
 僕を引きずり込もうとしていた人魂たちがその光に払われる。
 その声の主はすばやく僕の腕を掴むと、かなりの強さで公園の外へと引っ張った。あまりにも強いものだから、腕が抜けるかとばかりの痛みに呻く。
 僕は気が抜けてへなへなとその場に座り込んでしまった。
 情けなさもいっぱいだったが、それよりも助かったことへの安堵の方が大きい。
 感謝の気持ちと戸惑いをこめてその人物を見上げる。そして僕は目をこれ以上ないぐらい見開いた。

「よ……吉田君?」

 そう、僕を助けてくれたその人物は、なんとあの吉田だった。
 ただ、普段と違って眼鏡をしておらず、一瞬誰だかわからなかった。

「消えろ」

 吉田は闇に向かって鋭く命じた。
 途端、残りの人魂たちも瞬時に消えた。

『おのれ、邪魔をするか』

 『声』が言う。怨恨うずまく、どす黒くも寒々しい声調で。
 吉田はとっさに懐から何かを取り出すと、小さく唱え、『声』の方へ放り投げた。
 一瞬、きらっと閃いて見えた感じでは、きっとナイフか何かであったろうか。
 それが闇に吸い込まれる。
 絶叫が響いた。
 その『声』に共鳴してまわりの木の枝やら土やらが吹き飛んでくる。
 よくも、と『声』が怒鳴り、その咆哮が刃となって襲いかかる。
 吉田が身構えた。
 その時、

「賢司!」

 誰かの声がしたかと思うと、突風が巻き起こった。
 砂塵が舞い、視界がさえぎられる。
 やっと少し収まってきたのでつむってた目をそっと開けてみると、そこには長身の男がこちらに背を向けて立っていた。
 風にたなびく長い髪と、月の光にさえ反射するその色。

「篁」

 吉田がその背に向かって呼びかける。

「やっと来たか」
「なーにが『やっと来たか』だ。勝手にいなくなっておきながら……」

 タカムラと呼ばれたその青年はぜいぜい喘ぎながら言った。
 どうやら走ってきたらしい。
 その声には怒りと安堵と、どこか諦めのようなものがない交ぜになっていた。

「大体あんたはいつも――」
「説教は後だ、タカ。――奴を」

 吉田がタカムラの声をさえぎり、顎でしゃくった。
 吉田が示した闇の中からかすかにうめき声が聞こえる。
 先程よりも呪縛が緩いことから分かる。『奴』は確実に弱っているようだった。
 そういえば、さっきまで息苦しいほど圧迫していた空気――これが邪気というものなのだろうか――が薄くなっているような気がする。
 タカムラはいまいましそうに舌打ちをすると

「承知」

 とだけ言って、前方の闇に向かって走り出した。
 僕にはタカムラが何をする気なのかは分からなかったが、公園に入る直前、彼の身体がぼやけたような気がした。
 そして彼の身体が闇に飲み込まれ――


『――――――』


 声にならない悲鳴が闇を引き裂いた。




 あたりに静けさが戻ったときには、僕は呆然とへたり込んでいた。両膝頭に感じる地面のざらついた痛みが、現実を訴えてくる。
 さっきまで充満していた邪気はもう跡形もなくなっている。ふと気づくと、タカムラは公園の中で何かを見下ろしている。よく見れば、それは地面に横たわる人影――男だった。
 年は40代半ばといったところだろうか。
 髪には白いものが目立ち、無精ひげを生やし、少し頬がこけていてやつれた顔をしていた。
 その隣に吉田が膝をつき、

「あなたは、以前ここでバイク事故でお亡くなりになったという方ですか?」

 とそっと問い掛けた。
 違う、と影は否定する。

「わけを、話してはいただけませんか。なぜこんなところにいるのか。そして、なぜあのようなことをしていたのか」

 男はしばらくためらった後、少しずつ、思い返すように語った。

『ああ暗い、ここはどこだ? よく覚えていない……だが俺は…俺は、ここで死んだ。殺されたんだ』
「誰に?」
『忘れた。…いや、違う、覚えている……親友だ…俺の親友に、俺は殺された』

 青白い頬に朱が一筋線を描く。
 天を仰ぐ男の落ち窪んだ眼窩から、血の涙が流れていた。

『認めたく、なかったんだ。だって親友と俺の妻がそんな関係になっていたなんて……それで俺が邪魔になったなんて、そんなこと。俺は死にたくなかった。死にたくなかったんだよ。だって俺には家族がいたんだ…妻と、三人の子が! 遅くまで仕事で疲れても、家に帰ればあいつがいる。子供たちが笑ってる……それだけでよかった。それだけでとても、とても幸せだったのに』

 吉田は男の話に静かに耳を傾けている。
 タカムラはそんな二人のやり取りを黙って見つめていた。

『なのに殺された。行き場のないまま、俺はここの霊たちに呼ばれた。操られていたのか、俺は。俺はあんなことしたくなかった……でも…恨みだけがどんどんつのってどうしようもなくなって…。俺はただもう一度会いたかっただけなのに…』

 男は泣いているようだった。

「そうですね。あなたはただ利用されただけだ」
『だが、それでも俺は人の命を奪ってしまった……俺は重大な罪を犯してしまったよ…。許されることじゃない。俺は恨まれて当然のことを、してしまった』

 吉田は、慟哭しながらに語る男へ、諭すように言った。

「あなたは悪くない。もう苦しみは終わりました。いま、あなたを責める人は誰もいません。あなたに引き込まれた人々は“道”を見つけました。だからもう何も気にしなくていいんです」
『だけど俺は』
「いいんですよ、もう。あなたの罪はすべて俺が引き受けます」
『本当に? 俺は、もう自由になっていいのか……? あんなに多くの人を苦しめたのに? 何で君は俺のためにそんなことまでしてくれるんだ…?』

 吉田は目を伏せて、

「――それが俺の仕事(つとめ)ですから」

 その言葉は何故か僕にはズンと重たく響いた。
 仕事と一言で言っているが、その単語には何かあらがいがたい強い力が作用しているように思えたのだ。

『ありがたい』

 男にも何か感じるところがあったのだろうか。しばしの沈黙のあと、消え入るように一言だけそう言った。
 男の身体が少しずつ淡く輝きだす。
 その光は先程の人魂たちが放っていたような禍々しいものではなく、暖かくて優しい輝きだった。
 土ボタルみたいだ、と思った。

『そうだ……最後に君の名前を教えてもらえないか?』

 男がふと思いついたかのように言った。やはり恩人の名は知っておきたいものなのだろう。
 それまで直立不動だったタカムラの表情が少し揺らいだ。
 吉田は少し躊躇したあと、申し訳なさそうに首を振った。

「名前は、教えられないんです」

 男はそうか、と残念そうな顔をしたが、

『本当に、ありがとうな…』

 と笑った。
 実に晴れ晴れとした笑みだった。
 ようやく長い旅路から、故郷に帰ってきたような、そんな表情だった。
 青白く発光する身体は段々薄れてゆき、とうとう空中に溶け込むようにして消えた。
 消える直前の、

『ああやっと……うれしいなぁ…』

 という声があたりにしばらく尾を引き、余韻を残していた。
07.09.27

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