あの日は大事なテストがあって、前の晩に遅くまで勉強していた僕はつい寝坊してしまった。
 そのテストと言うのは、受験生である3年には欠かせない重要なもので、内申に大きくかかわってくるものだった。
 慌てて家を飛び出し、全速力で走ったが運悪く踏み切りに引っかかってしまった。
 ここの踏み切りは開かずの踏み切りと呼ばれていて、電車が連続して通るためいったん降りてしまうと次に上がるまで時間がかかる。このまますべての電車が通り終わるのを待っていたら確実にテストに間に合わない。
 僕は二本ある線路のうちの、こちら側の電車が一本通過したところを見計らって、踏み切りの下をくぐりそのまま突っ切ろうとした。
 連続すると言っても一本一本の電車の間には少し時間があるから、僕はその合間で渡るつもりだったのだ。
 でも――


「君はその時いつもと時間帯が違っていたのを忘れていた」

 吉田が言った。深い、独特のトーンがうたかたのように浮かんで消える。

「だからその電車とすれ違うように入ってきた反対側の電車に気がつかなかったんだ」

 そのとき、周りには人がいなかった。不幸が重なってしまったのだ。僕はその電車に撥ねられたのだろう。
 だろう、というのは撥ねられたときの記憶がないからだ。
 そして僕は自分が死んだことに気づかないまま『生活』を続けた。

「そっか。なぁんだ、僕はもう死んじゃってるんだ……」

 僕は笑っていた。乾いた笑い声は、自分に向けたもの。心には虚しさだけが広がる。
 気づいた方が良かったのか、それとも気づかないままの方が良かったのか。
 僕は外していた目線を戻し、吉田を見据え、ずっと考えて続けていた疑問をぶつける。

「君は、一体『誰』なんだ?」

「――」

 風がザァッと鳴った。
 それまで目を瞑っていたタカムラがちら、とこっちを一瞥した。
 さっきの出来事といい今の話といい、到底普通の人間にできることではない。
 それぞれの髪が風に舞う。

「――『聞き人』だよ」

 そのとき吉田がかすかに頬を緩めて笑ったように見えたのは気のせいだったろうか。

「『聞き人』・・・?」

 聞き慣れない言葉だ。

「なんなの、それ?」
「この世に彷徨う死人の未練を『聞く』ことで断ち切り、彼方への『道』を切り開く役目を担う人間のことさ」

 要は霊能力者の一種かなにかということだろうか。僕はオカルトには一切興味がなかったから、その違いはよく分からない。

「何で僕のことが分かったの?」

 これも疑問だった。
 何故吉田は僕が死んだ理由をあんなに詳しく知っていたのだろう。

「見鬼と霊視は『聞き人』にとって重要な能力のひとつだ」

 吉田はさして重要でもなさそうに言った。

「けんきとれい……?」
「この世にあらざるものと、ある物事や人物に対してその過去や未来が見えたりする能力のことだよ。時には幻視とか透視って言ったりもする」

 透視と聞いて、ああ、と納得する。

「それじゃあ君達二人ともその…『聞き人』、をやってるからここまで?」
「俺は違う」

 終始無言だったタカムラがはじめて口を開いた。

「『聞き人』は俺だけだよ。あっちは『防人(さきもり)』」

 と、吉田が右手の人差し指で自分、左の親指でタカムラを指して説明する。

「『防人』?」

 どんどん知らない単語が出てくる。

「まぁ家来みたいなもの」

 説明が面倒になったのか適当に言う吉田に間髪入れず、

「護衛と言え護衛と」

 とタカムラ。

「・・・だそうなので、家来兼護衛」

 心なしか「家来」の方に力がこもっている。

「〜〜〜〜〜」

 この二人を見ているとまるで息がぴったり合った漫才コンビのようだ。

「それはさておき。『聞き人』の役目は死人の浄霊・・・つまり、成仏させること」

 成仏……

「死んでもまだこの世にとどまり続けるのは辛く苦しいことだし、とどまる分だけ彼方への道も遠く険しくなる。地縛霊とがいい例。それに、そういった死人達がとどまりつづけることによって、『こっち』と『あっち』のバランスもおかしくなってくるんだ」

 吉田の表情に昏い影が宿った。吉田は、ずっとそういう苦しみ続ける霊達をたくさん見てきたのだろう。
 『見える』人にしかわからない苦痛なのかもしれない。
 逆にいえば、それは『見えない』人には理解しがたい感覚なのだ。

「前にこのあたりを通りかかったところ、雑鬼はうじゃうじゃいるし、なにやら怪しげな気配はするしで半端じゃなかったから」
「だからここに転校してきた?」

 吉田が頷く。

「まあそういうことだね」

 彼らはここに来る以前もこうして浄霊を続けてきたのだろうか、とふと思った。
 全国を旅し、浮かばれない魂を見つけては成仏させ、時には命の危険にさらされて。
 その途方もない苦労と、終わりのない使命。
 彼らは重い宿命を背負って生きているのだ。
 あの哀れな男に言っていた「仕事だから」という言葉の裏には、そのような意味が含まれていたのだろうか。

「さて、そろそろ時間かな」

 吉田が背伸びをする。

「そうだね、もう行かなきゃ」

 僕の身体の周りが淡く発光し始める。
 何故だかは分からないが、分かる。
 『その時』がきたのだと。
 ああ、あの『声』の主と同じ光だ。
 冴え冴えとした月のような輝きだ。

「もう分かるだろう?」
「うん」

 大丈夫、迷うことはない。
 目を向けた彼方にはたしかな光があった。
 あの光を目指していけばいい。

「あ、そうだ。聞き忘れてたけど、君あの男の人に名前は教えられないって言ってたよね。あれどういうこと?」
「あぁ…。『聞き人』は送りゆく死人に自分の名前を教えちゃいけない掟なんだ」
「どうして?」

 吉田は少し迷った表情をしたが、これに答えないと僕が行かないと思ったらしく、小さく溜め息をついた。

「誰かに名を知られるってことは、少なからずその人から影響を受けるってことなんだ。死人に名を知られてしまうと、その死人の『死』に引きずられる恐れがある。だから『聞き人』は決して他人に名を知られてはいけない、そう堅く禁じられているんだ」
「じゃあ僕が知っている名前は」
「偽名だよ」

 いともあっさりと言う。

「誰にもって…ということはいつも色々な名前で呼ばれているの?」

 想像するとそれはそれで大変そうだ。しかし吉田はかぶりをふった。

「いいや。ちゃんと普段用の呼び名もあるよ。『聞き人』は真名と仮名と、ふたつの名前をもっているんだ。真名は、これはもう何がなんでも絶対に知られてはいけない本質的な名前で、これを知ると当人を支配する事もできるという強力な呪文みたいなもの。そして仮名というのが、普段使われる名前。さすがに何か呼び名がないと不便だからね」
「その仮名の方も教えちゃダメなの?」
「たとえ仮名でも、ずっとその名で呼ばれていれば本質に近くなって、それなりに影響力を持つんだ。といっても大した影響力じゃないけど、念には念をってことなんだろ」

 なんだか難しい話だ。

「そっか……じゃあ僕もやっぱり教えてもらえないんだね」

 ちょっとあの男の人の気持ちが分かった気がする。ある意味、彼は僕らの命の恩人(既に死んでいるのに『命』というのもおかしいが)。次の生への道を示してくれた人だ。その恩人の名前が分からないのはなんとも残念である。

「ごめん」

 吉田は少しだけすまなそうに言った。

「ううん。謝るのはこっちの方だよ。色々迷惑かけちゃってさ」

 身体が徐々に透きとおって空気に溶けていく。
 吉田は合掌して何かを唱える。
 ちゃんと旅路につけるように導いてくれるのだ。

(最後の最後まできっちり面倒見るあたり仕事熱心だな)

 何だかおかしくて、つい笑いがこぼれてしまう。
 視界がどんどん白くなってくる。眩しくなって、目を細めた。手を合わせる吉田が、光の向こうにかすれていく。
 吉田には言わなかったけど、本当はちょっと嬉しかったんだ。
 心のどこかでは、本当は誰も僕のことに気づいていないと分かっていたから。
 僕の声に言葉を返してくれたのは吉田だけだったから、嬉しかった。それに短い間だったけど、少しだけ楽しくもあったんだ。もうそれを伝える時はないけれど。
 だから、とうとう見えなくなる寸前で、僕は精一杯思いを込めて呟いた。

「…ありがとう…」


 ありがとう。ありがとう。こんな僕のためにも祈ってくれて、ありがとう。
 ひとりぼっちで行かせないでくれて、ありがとう。
 大丈夫、もう迷わないよ。
07.09.27

7BACK      NEXT8
MENU